2017年4月22日土曜日

洗礼式

 普通の教会だったら、洗礼を受けるように勧められます。会員をつくるため、会員になってから毎日曜日礼拝に出なければならない、教会の中で奉仕しなければならない。それから献金しなくっちゃいけない。結局洗礼を受けることによって束縛されます。不自由になります。間違った罪悪感を持つようになります。全部おかしい。

 そしたら、どうして私たちは洗礼式をやるなのでしょうか。まあ、救われるために救われたのじゃない。主に用いられるためにです。そして今日のユーのバプテスマも一つの証です。救われるためじゃない。もうすでに救われちゃったよ。けどもイエス様はまあ、救われた人々を用いようと望んでおられます。地獄へ行く人々の多くは文句言うと思うよ。生きている間に洗礼を受けたのに地獄へ行ったのはけしからん。天国へ行くの大部分は。皆さんすごいじゃないの。洗礼を受けなかったのに天国へ入っちゃった。まあ「洗礼」とは「救い」と関係ない。イエス様をほめたたえるためのものです。

 結局愛するユー姉妹も、まあ、イエス様はすごい。イエス様のために生きたいと思うようになったから、ありがたい。自分でできないのは決まり。けどもイエス様は「お出で、わたしは導き手です。必要なもの必ず与えます」ですから洗礼を受ける愛するユー姉妹はちょっと一度だけ水の中にもぐります。このようにイエス様もわれわれのために死に行かれ、われわれの贖いのために代価を払って下さいました。また洗礼を受ける愛するユー姉妹は水の中に沈められます。つまりちょっとだけ見えなくなる。このようにイエス様は葬られ、ちょっと見えなくなってしまったのです。また洗礼を受けるユー姉妹は水の中から上げられます。このようにイエス様は「死」からよみがえられたお方です。死に打ち勝ったお方です。まあ、イエス様は生きておられます。

 まあ、イエス様を信ずる者とは結局イエス様の生きておられる証拠そのものです。だれも私は勉強したから、立派だったから救われたと言えません。よほどめくらにされていなければ。どうして信ずるようになったのか、どうして救われたのか、結局わからない。主はあわれんでくださったからです。ですから、今日洗礼を受ける愛するユー姉妹はイエス様が自分のわがまま、自分の罪を取り除いて下さった。イエス様は自分の罪の問題を解決して下さった。イエス様を信じたいと思うようになりました。結局イエス様は自分の心の目を開いて下さった、したがって誰もどうして信ずるようになったか言えないよ。イエス様があわれんでくださったから。ほむべきなのはイエス様だけです。

 結局あらゆる人間はわがままで主なる神から引き離されたものです。そして主なる神からの分離は孤独、そして喜びのない状態を意味します。けども愛するユー姉妹はイエス様は私の心の目を開いて下さった、ありがたい、今から私は自分のためじゃなくて、イエス様のために生きたい、と望んでおられるのは本当にありがたい。彼女はすごいじゃないよ。イエス様はすばらしい。(笑い)まあ、このイエス様を紹介することとは今日のバプテスマの意味であります。

(必要あって、ベックさんの洗礼式のメッセージを聞き書きした。幸い、昨年の3月27日のバンクーバーでの様子が録音されていた。元気なベックさんの声をお聞きしているとその後、五ヵ月足らずで急逝されるとはとても思えなかった。)