2017年1月31日火曜日

悪の霊に対する戦い(中)

 献身をし、できるだけ多くの奉仕をすることが、問題ではありません。私たちがイエス様に対して奉仕しているかが問題です。マルタがイエス様のために食事を用意した時、何を考えたでありましょうか。これを作ったら主は大喜びになるのでしょうか。こうやったら主は満足するのでありましょうか。イエス様を喜ばせたいという気持ちで一杯だったと思います。これこそが大切なんです。

 私たちは主の御前に出る時に、主は私たちの奉仕を心から喜び満足しておられるのでありましょうか。そうなったら初めて私たちはベタニヤとなることができる、主の憩いの場所となることができるのです。私たちはこの二人の姉妹を見るとイエス様に対するまことの愛とイエス様に対するまことの奉仕という、主の御心にかなった二つの大切な事柄を見ることができます。けども、この二つのこと、主に対する愛、主に対する奉仕が、決して最後ではありません。私たちの主イエス様はもっと大いなることを望んでおられるお方です。

 けど何と言っても先ず第一にこの愛と奉仕がなければ、主は私たちをもっと先へ導くことができません。と言うのは、第三番目になりますけど、私たちは主のよみがえりの力を経験しなければならないということです。イエス様は何を願っておられるでありましょうか。イエス様は今死の暗闇をとおり、そののち主のみことばによってよみがえらせられたラザロと食を共にし交わりを持ちたく願っておられるのです。

 聖書を読む主のために働いた人々を見ると、教会の歴史を見て主によって用いられた人々を見ると、それらの人たちは主に対して、二つに分かれていない愛を持ち、また忠実な奉仕をした結果は何であったかと言いますと、死のような苦しいところを通され、のちによみがえりの力を持っていたことです。イエス様の救いにあずかり、イエス様をよりよく知ろうと思えば、イエス様に用いられたいと願うようになれば、必ず戦いの中に閉じ込まれるようになるのでありましょう。

 この戦いに勝つためには全力を挙げて走らなければならないと、聖書は言っています。なぜならば、この戦いは激しいものであるからです。パウロはキリスト者の生涯を「競技者」にたとえていますが、たとえばコリント第一の手紙の9章からちょっと一ヵ所お読み致します。302頁になります。9章の24節です。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

それから、ヘブル書の12章の1節です。404頁になりますが
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

それから、もう一ヵ所パウロは使徒行伝20章24節で、次のように告白しています。248頁になります。良く知られている箇所です。すばらしい告白であります。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

こういうふうにパウロはキリスト者の戦いについて書き記したのであります。キリスト者の生涯を競技者にたとえているわけです。

 これらのことばを読んでみると、信仰の競争を走り抜くには、色々なものを捨てなければならないことがわかるのではないでしょうか。それが思い煩いである場合もありましょう。憂鬱な気持ち、不信仰、不従順、人間を恐れる恐れであるかも知れません。また十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。

 悪魔は、神に用いられ神の御業のために心を尽くしてご奉仕しようと心がけている者の上に、集中的に攻撃して来ます。主のご臨在を持ち運び、まことのご奉仕にかなう人々は地獄の憎しみの真中に置かれ、悪魔の攻撃の目標に置かれます。もし悪魔の目的の中心に立たされていないなら、我々の礼拝、また我々のご奉仕は、根本から誤っていると言わなければなりません。この戦いは厳しい現実です。この激しい戦いの中にある時もなお、私たちは主が成し遂げてくださった完全な勝利に包まれて、雄々しく立っていなければならないのです。

 勝利を得るために戦うなら、その人はその時負けてしまいます。悪魔の力を考え、このように、あのように戦おうと考える時、その時もう既に負けてしまっているのです。ゴルゴタの丘の上で、十字架の上で、イエス様が勝ってくださった勝利は完全なる勝利です。勝利のために戦う必要は少しもありません。我々が戦おうとする試み、戦いは、私たちを絶望に陥れるだけなのです。イエス様は完全な勝利をお取りになりました。悪魔は打ち負かされた敗北者です。これを堅く信じなければなりません。不安、色々な思い煩い、まわりを見て、また行く末を考えて恐れること、これらは無益なことです。

 父なる神の右に座したもうイエス様から目をそらす瞬間に、私たちは証し人の力を失います。普通の世人と同じような状態になってしまいます。イスラエルの民を取り巻く敵たちは会見の幕屋を見た時、その上にとどまる主の臨在を見ました。主を知らない人々が、我々の真中に来る時、私たちの内に光り輝く主を見るでありましょうか。あるいは失望して元気のないみじめな人を見るのでありましょうか。どちらでしょうか。

 私たちの将来は、私たちの戦いは、勝利で始まります。勝利から始まります。イエス様は完全な勝利者となられましたから、私たちも勝利者となることはできますし、またそうする必要もあります。どんなに悪魔の力が強く攻撃が激しくても、私たちはイエス様が私たちのためになしてくださった勝利のうちに堅く立っていなければなりません。けど私たちは実際にどうでしょうか。イエス様の勝利の真中に立っているのでありましょうか。聖書ではなるほど主の勝利を告げています。また私たちは過去に勝利を収めたかもしれませんけど、今、今日勝利の真中にいるのでありましょうか。もし勝利の真中に私たちが堅く保っているなら、主の証し人として生きていることになります。今日新しくイエス様が十字架でなしてくださった完全な勝利に心から感謝をささげたいものです。私たちはもうすでにあらゆる悪魔の攻撃に対する答えを持っているのです。

 私たちもレビ人と同じように、悩みと苦しみと誤解と無理解の荒野の真っ只中で、なお主の臨在を担い、御栄えのためにひたすら前進するものとなっているでしょうか。臨在の雲は我々の上にとどまっているのでありましょうか。私たちは主の喜ばれる者となっているのでありましょうか。私たちの目は主の偉大さに開かれ、私たちはまことの礼拝する者となっているのでありましょうか。私たちは、全身全霊をあげて主により頼んでいるなのでありましょうか。それとも私たちのは肉の力でなされているのでありましょうか。あらゆる問題の中にイエス様の勝利がもたらされ、私たちはそれを喜ぶことができているのでありましょうか。

 私たちに与えられた使命は、いったい何なのでしょうか。「主イエス様の顔に輝く栄光の知識を明らかにする」ことだとコリント第二の手紙に書き記されています。コリント第二の手紙4章6節になりますが、318頁です。コリント第二の手紙4章6節からお読み致します。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

 「私たちはこの宝を土の器の中に持っている」とパウロは言っています。何の宝でしょうか。キリストの香り輝く神の栄光の知識です。私たちの使命はいったい何なのでしょうか。私たちの働きや目的は何なのでしょうか。キリストの香り輝く神の栄光の知識を明らかにすることなのです。これは偉大なる使命です。私たちの場合はいったいどうでしょうか。

(引用者註: さて、明日の結論部分はどのように閉じられるのでありましょうか。主イエス様の勝利に堅く立ちなさいとの勧めを味わいたいと思います。GB[162]。)

2017年1月30日月曜日

悪の霊に対する戦い(上)

朗読箇所 民数記8章14節、16節、24節

 主の目的は今まで学びましたように一人でも多くの人々がまことの救いにあずかることです。永遠のいのちを持つことができ、毎日安心して生活することができ、生き生きとした希望をもって死に向かうことができる、そして死後もちろん永遠に喜びの泉である神と一緒に過ごすこと、これこそ主の目ざすところであります。

 けどもそれだけでなく、救われた人々をとおして今ご自分のご臨在、ご栄光をあらわそうと切に望んでおられるのです。すなわちイエス様を信じ、イエス様を受け入れた人々を通して主は働こうと望んでおられます。内に住んでおられるイエス様こそ、生まれ変わった証拠です。すなわちまわりの人々は我々のうちにイエス様が住んでおられることに気づくはずです。そのように身をもってイエス様を証して初めて主の証し人と言えると思います。そして前に学びましたように、読まれました箇所を見ると、会見の幕屋で、働き、いわゆる契約の箱を担う務めをしたレビ人たちこそが主の証し人だったのです。彼らは全く主にささげられていたことが、前に読みました箇所をとおして知ることができます。一つ残らずすべてを主におささげしたのが、当時のレビ人たちだったのです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主の栄光をあらわすことのできる模範の人々でした。

 レビ人には三つの特徴があります。第一番目は神に対する礼拝です。第二番目は人に仕える奉仕です。今までこの二つの点について学んできました。第三番目は「悪の霊に対する戦い」です。レビ人にはこの三つの特徴を持っていました。この三つのことはそのまま我々の日々の生活に、主が求めておられることです。

 「礼拝」とは何でしょうか。父ならびに、御子イエス様の偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心からあらわすのが礼拝です。もっともっと心の目が開かれ、主がどんなに素晴らしく偉大なお方であるか見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとってほんとうに必要なことです。主の偉大さがわかればわかるほどまことの礼拝ができ、礼拝すればするほど主の偉大さが見えて来ます。我々の生活の真中に主に対するまことの礼拝がなされているのでありましょうか。

 私たちはなるほど主の恵みによって救われた者です。けども、この世に生活している者として、礼拝する者として、毎日毎日過ごしているのでありましょうか。主なる神はあまねく全地を見まわし心を全うして礼拝する人々を切に望んでおられるのです。結局、神に対するまことの礼拝は我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。あなたはただ救われるために救われたのではなく、あなたによって主なる神が礼拝の中心になるように、これこそがあなたの生活の使命なのです。「礼拝」は主なる神があなたにあってすべてとなられることです。

 主は我々の心の内にどれほどの余地を持っているかが問題です。主が我々の民にいかほどの価値があるでしょうか。主が私たちにとって真に尊い方であれば、余りに良いというものは一つもありません。余りに高いというものも一つもありません。私たちは、あらゆるものはそれがもっとも深く、もっともすばらしくあっても、主に対してささげます。主はかつてペテロにあなたは「わたしを愛するか 」と訊ねたのでありますが、もちろん、主は今日も同じように私を愛するかと聞いておられます。

 前に私たちは新約聖書に出て来るベタニヤについて考えたんですけれども、またご存知のように、ベタニヤではおのおのちがった特徴を持った三人の兄弟姉妹たち、すなわちマリヤ、マルタ、ラザロが住んでいたところでした。そしてイエス様はいつも好んでこのベタニヤに来られて、三人の兄弟姉妹をお訪ねになったのです。そこでお休みになり、また食事を取ったりされました。いつも楽しみにしてベタニヤをた訪れたり休みなさったのです。イエス様は一体どうしてそんなにベタニヤを愛されたのでありましょうか。

 第一の理由は今の話したことです。ベタニヤでイエス様は本当の意味で礼拝されたのです。イエス様は本当の意味で愛されたのです。主にマリヤの特徴はまことの礼拝ではなかったでしょうか。彼女は生涯イエス様を愛し抜きました。非常に価の高いナルドの匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、実に高い、また聖い主に対する愛を示したのです。ベタニヤはしたがって主に対する愛が満ちあふれていたところです。福音書を見るとナルドの匂い油が家全体に満ちたと書き記されていますが、それと同じように愛の雰囲気が三人兄姉のうちを包んでいました。彼らは本当の意味での礼拝者だったのです。そして主は満足して下さったのです。

 主に対するこのようなマリヤの愛は、主が何にも増して求めておられるところのものです。イエス様は私たちが心からすべてをささげ、主を愛しているかどうかを見ておられます。そして、レビ人の第二番目の特徴は前に言いましたように、まことの奉仕でした。あるいは仕えることでした。我々のご奉仕は瞬間、瞬間主を見上げ、主により頼み、すがっていくご奉仕でなければならない。レビ人は驚くほどたくさんの奉仕をなしたのでありますが、このレビ人たちはそのご奉仕に自分の力、自分の能力により頼まないで、ただ主の力により頼んだのです。我々のご奉仕も信仰のあらわれでなければなりません。もしそうするなら、どんな小さなこともまことのご奉仕となります。

 パウロは次のように書き記したことがあります。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。飲むにも食べるにもまた何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。すべてをとおして神のご臨在が、神の栄光が明らかになるように、と。
それが何であれ、信仰をもって御栄えのためにやるなら、まことの御奉仕であるということです。キリスト者の使命について考えると、この間使徒行伝から一ヵ所読みましたが、イエス様は次のように言われたのです。使徒行伝1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

と、書いてあります。
 キリスト者の使命は全世界に福音が宣べ伝えられることです。もし私たちが大胆な証し人とならなかったら管が詰まっているのです。へりくだりましょう。管が通り良くなるために。

 ちょっとベタニヤに帰りましょう。ベタニヤに生涯をとおして愛し抜いたマリヤだけではなく、主に本当に忠実に仕えたマルタもいたのであります。ですから我々はこの主に対する愛に満ちた家の中で、同時に主に対してなされた忠実な奉仕を見ることができます。このマルタはイエス様のために、自分のためじゃないんです。他の人々のためよりも、主のために食事を準備したのです。我々もマリヤと同じように主に対して奉仕する者なのでありましょうか。あるいは他人を見てあれこれをやるんでありましょうか。

( 引用者註:ろばの子サーバーのDVD#1 CD#19 0253のベック兄のメッセージの聞き書きである。こうして私たちは何度も何度も同じことを繰り返し聞かされているように見えるが、その実、そのメッセージはちょうど螺旋階段を徐々に上って行くように新たな霊的真理へと案内されて行く。基本に忠実なベック兄の歩み、思考を思うことができる。GB[161]。)