最後に一つのパンフレットに書いたことをちょっとお読み致します。その題名は「満たされた生活」なんです。我々キリスト者の使命はもちろん「満たされた生活を送る」ことではないでしょうか。「我々は皆満たされた生活に満たされている」と聖書ははっきり言っているのです。パンフレットの内容は次の内容です。
中国の福建省の丘には所有者の名前が刻み込まれた特殊な美しい価値ある竹の幹が見られます。必要な水を村へ引くにはこのような長い竹筒の樋を用いねばならないことがしばしばあります。竹の直径は大体10センチから11センチです。一本の類稀な美しい竹が他の竹に混じって、ある丘の側に立っていました。その幹は黒くつやつや光っており、やさしい羽根のような枝は涼しい夕暮に揺り動いていました。私がその竹の前に立ち、その素晴らしい美しさに驚嘆していますと、この木は私に何かささやき始めました。
「あなたは私に強い幹と力強い枝に驚いておられる。しかし、あなたの見ておられるものは、皆私自身の力でできたものは一つもないのです。私の持っているものは全部私のご主人の愛情深い世話でできたものです。彼は私をこの豊かな丘に植え、私の根が隠された泉にとどくことが出来るようにして、この泉から私は絶えずいのちの水を飲み、栄養を取り、美しさや力を得ているのです。よその木を見てご覧なさい。何とやせ細っていることでしょう。あの木々の根は生きた泉に届いていないのです。私はそれに引き換え、隠れた水を見つけているから、欠乏することを知りません。私の幹に彫ってある文字を読んでご覧になりますか。近くへ来て見てご覧なさい。この文字は彫り込まれているのです。この仕事は苦痛に満ちたものでした。仕事の終わるまで耐え忍びました。しかし小刀を振るったのは私の主人の手だったのです。この仕事が終わった後、私はいい知らない喜びを覚えました。この時以来、彼は私を愛しており、私が彼の所有物であるということを私に知らせようと思っているという確信を持ちました。実にこのような主人を持つということは私の名誉です。」
竹が私にこれらをみな語っている間に、私はあたりを見回しました。すると、この主人が立っていました。彼は愛情込めて自分の木を眺めていました。手には一振りの鋭い斧を持っていました。「わたしはおまえが必要なのだ。おまえはわたしの役に立ってくれるかい」と彼は言いました。「ご主人さま、私の持っているものはみなあなたのものです。しかし、私はあなたにとって何のために役に立つのでしょうか」とこの竹は答えました。「わたしは、わたしの生きるための水を、乾いて痩せた水のない土地へ持っていくためにおまえが必要なんだよ」と主人は答えました。「しかし、ご主人さま、どうして私はそれに役立つことが出来るのでしょう。生きた泉のあるここでは私は必要に応じて水を得ることができ、私の枝は空に張り出し、降って来るにわか雨で元気づけられるのです。私は強く美しくなることができ、力と美しさが天から与えられるのがうれしいのです。私は通り行く人すべてにあなたは私にとって実に良い主人だということが出来ます。どうしたら、私は他の人々にいのちの水をさらに与えることができるのでしょうか。」
主人のこれに答える声は非常に弱くなって、「もしおまえがおとなしくしていたら、わたしはおまえを使うことができるのだ。しかし、そのためにはわたしはおまえを切り倒してお前の枝を全部取り、おまえを裸にせねばならないのだ。それからわたしはおまえをここから遠くの山の青草と雑草の刺のある雑木しか生えていない寂しい場所へ持って行き、そこでさえわたしは小刀を使わなければならないのだよ。なぜならわたしのいのちの水が通り抜けることができるようにおまえの幹の中の邪魔物を取り除かなければならないからだ。おまえは今自分が死ぬだろうということを考えているね。そう、おまえは死ぬでしょう。しかし、それからわたしのいのちの水はおまえの中を通って、妨げられずに流れることができるのだ。確かにおまえは自分の美しさを捨てなければならない。おまえを讃美し、おまえのみずみずしさや力強さをほめたたえる者は誰もなくなるだろう。しかし、多くの人々がかがんで、おまえを通って流れるいのちの流れを飲むのだよ。確かに彼らはおまえを見ないであろう。しかし、おまえを通して生きるための水を与えたおまえの主人をほめたたえるだろう。おまえはこの報酬を快く受け入れて死ぬことができるか。」
私はこの竹の答えを聞こうとして息を殺して「ご主人さま、私および私の持っているものは全部あなたのおかげです。もしあなたがほんとうに私を用い、私の献身によって他の人々に生きるための水を運ぶことができるのでしたら、私は喜んであなたに身をささげます。ご主人よ、私をあなたの思うままに切り取りお使いください。」主人の眼差しはよりやさしくなりました。それから彼は鋭い斧を手に取り、一撃のもとに切り倒しました。竹は少しも反抗せず、彼は手を緩めなかった。竹は囁いた。「ご主人さま。あなたの思うようにしてください。」斧は休みなく働く。そしてこの木の素晴らしさ、その王冠は幹から切り離され、永遠に失われたのです。今や彼はほんとうに裸になりました。
主人は、尽きることなく優しさを持ってこの幹を肩に担ぎ、山を越えて遠くの方へ運んで行きました。彼はある寂しい場所に立ちどまり、もう一度恐ろしそうに見える鋭く研がれた刃物を手にしました。彼はその刃物を幹の中心に直接突き刺し、抉り出しました。彼は幹の中に水路をつくり、この管によって水のない土地に水を流そうとしたのです。幹は逆らわず、ただ「ご主人さま、あなたの思うことが実現しますように」と囁くのでした。彼は節に全部穴を開け、幹の端から端まで、穴が空くまで同情を込めてこの仕事をやりました。それから彼は幹を起こし、用心深く、水晶のように澄んでいるいのちの水がほとばしり出ているところに運びました。そこに幹を横にし、一方の端を水がほとばしり出るところに送りました。水は幹を通って流れました。非常な苦痛のもとにできた軌道に沿って流れました。流れのように水は流れました。音もなく絶え間なく、無尽蔵に。そして主人は喜び、また満足もしました。そして、主人は他の木を探すためにまた出かけました。彼の選んだ二三本の木は驚いて尻込みしました。その報酬を恐れたのです。しかし、他の木は「ご主人さま、私たちはあなたを信頼しています。あなたの思うようにしてください」と言いながら彼に身をゆだねました。
このような苦難の道を経た後、彼は木を順々に例の場所に運び、端と端を結んで下に置きました。幹幹が全部位置につくと彼は泉から直接新鮮な澄んだいのちの水を注ぎ込みました。幹によって橋渡しされた距離は長い間、思い焦がれていた喉の渇いた人々は、男も女も子どももみなこの水を飲むことができました。それから、彼らは「水が来たぞ、長い間の苦しみは終わった。来て飲みなさい」と言いながら、他の人たちは来て水を飲み元気づけられました。主人はこの様を見、彼の心は幸福になった。彼は自分の木のところへ引き返し、木に訊ねました。「おまえは相変わらず寂しいか。世界にいのちの水を与えるための報いは高過ぎたか」それに続いて、木は答えました。「いいえ、ご主人さま。たとい私が千のいのちを持っているとしても、私はあなたを喜ばせ、喉の渇いた人々を休め、役立つという幸福のためにあなたに身をゆだねたことでしょう」
最後に、最初に読みました箇所をもう一回読んで終わりたいと思います。ピリピ書3章8節です。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
私たちは同じ態度を取ることができるならば、ほんとうに幸いと思います。
(引用者註:今日のこの話ほど示唆に富む例話はないであろう。何度も味わいたい話である。まさに『キリスト者の使命』の掉尾を飾るにふさわしい話である。長い間続けてきたこのシリーズもやっと今日で終わる。GB[170]。)
2017年2月8日水曜日
2017年2月7日火曜日
実を結ぶ人生(転)
前に何回も何回も言いましたように、大切なのは本当に主を仰ぎ見ることだけではないでしょうか。私たち自身を見ることは要りません。私たちは長い間自分自身を見て来ましたが、そのことの結果はどうだったのでありましょうか。私たちは傲慢になったり、また劣等感に陥ります。誰でも自分自身を見ると自分自身に頼る・・・、それは哀れな状態です。どうして私たちはイエス様だけを見ないのでしょうか。私たちはみことばを信じていないからです。「わたしから離れてはあなたがたは何一つできないからである」とイエスは言われたのです。もし私たちはこのみことばを信ずるならば、私たちは何事も自身を当てにしないでしょう。そして私たちは失望させられない、イエス様だけを見ましょう。私たちは自分自身を見る価値のない者です。
また私たちは他人を見ることは要りません。これも長い間私たちのなしたことではないでしょうか。その結果は、人の顔を見ることに陥り、または人の機嫌を取ることに心を奪われてしまいます。それは不幸の道です。おそらくイエス様を信ずる者は皆ペテロの経験をするでしょう。ペテロはイエス様を見ながら、「あなたこそ生けるまことの神、キリストです」と言いましたけど、まもなくイエス様は同じペテロに言われたのです。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者だ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」人を見ることはすなわち人により頼むことです。すなわち、主に頼ることができません。人を見る目から離れてイエス様だけを見上げなさい。
また、私たちは境遇を見る必要がありません。もし私たちが境遇の面倒なことを見るとそれに支配されてしまいます。「わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ないからである」とイエス様は言われたのです。このみことばを信ずべきではないでしょうか。イエス様はここで何もできない。多くのこと出来ないと言われなかったのですね。何も出来ない。説教することができても、証しをすることができても、色んな奉仕をすることができても、けどその実は永久に残りません。イエス様の判断によると「少しも」残らない、わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ない。私たちは自分自身を見ることは要りません。他人を見ることは要りません。境遇を見る必要はありません。
罪とはいったい何なのでありましょうか。罪というギリシヤ語の意味の一つは「矢が的をはずれる」という意味です。同じようにイエス様を見ないことは的をはずれることです。すなわち、罪です。一つの実例を申し上げましょうか。それはずっと昔、前の前の話ですけど、1942年ソ連のスターリングラードであったことなんですけども、ドイツの軍隊33万人はスターリングラードの町の中に敵の軍隊によって包囲されていました。数週間後、軍隊、兵隊たちはもはや弾薬も食料もなくなったんです。馬も全部食べ尽くされました。最初はまだ病人と負傷者は飛行機で連れ出すことができたんです。もちろんその情勢は見込みがなかったんです。多くの兵士たちは故郷の家族を思い絶望しました。その中にイエス様を信ずる者ももちろんいましたし、これらの信者たちは敵や絶望的な状態を見ることなく、ただイエス様だけを見たのです。私の友だちの友人もそこにいまして、この方はこのような状態の中では何にも出来ないということを知って、これは「イエス様なしでは何も出来ない」ということばを良く知っていましたので、彼はまたこのことばの現実性を知っていたから、すなわち「私を強くしてくださる方によって何事でも出来る」と確信したのです。だから、彼はこのような絶望的な状態の中でさえ、次のような詩をつくることができたのです。
主イエスと共にあれば、毎日毎日が麗しくなる
それを私は体験し、経験する
将来何が起ころうとも主イエスに忠誠を尽くしたい
と、このような詩をつくったんです。彼はもちろんすぐあとでも殺されてしまったんです。けども、主に頼ることこそが力の源です。
最後にちょっとだけ自己否定の大切さについて、すなわち自分により頼まないことについて考えて終わりたいと思います。自己否定は自分の権利をささげることです。自分により頼まないことです。「私の心ではなくあなたの御心をなしてください。」これこそがイエス様の全生涯の変わらなかった態度だったんです。だからイエス様から恵みの流れ、いのちの泉が人々に分け与えられていたのです。私たちの考え、私たちの感情、私たちの意志すべて主のご支配のもとに置かれる時、私たちの内からいのちの泉が湧き出てくるはずです。我々の生まれながらの考え、感情、意志は決して霊的ではありません。これを御霊の支配にゆだねる時、初めてそれは御心にかなうものとなります。それらを主にささげることにより、霊的なものになります。自分自らの考え、感情、意志を、自分から主に決心してささげるのでなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ません。
大ぜいの人が一緒にする決心ではなく、一人ひとりが決心しなければならないことです。これは祈りによっては解決できないことでしょう。実際に行わなければならないことです。「主よ、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通してご自身の御心をなさしめてください」と言いたいものです。
創世記の中でアブラハムについて多くのこと書いていますけども、彼はイサクをささげる前に、そのイシュマエルと言う子どもをささげなければならなかったんですけど、多くの信ずる者は反対のことをしているのではないかと思うんですね。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげようと思っているのです。すなわち、自らの自分の力で、肉の力で主に仕えようとします。いわゆる聖めは罪からの解放よりもっと深く大きいものです。それは自分の意志を主にささげ、自分の支配を主にゆだねることです。アブラハムは勇気を奮い起こして、自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。そのあとでアブラハムにもたらされた祝福はどんなに大きかったことでしょう。
彼の勝利の生活を私たちも送るためには何をやったら良いのでありましょう。アブラハムと同じように自分の最も愛するものを主にささぐることによって勝利の生活を送ることができます。
ドイツにある一人のキリスト者がいますけど、この方は自分の生まれながらの性質を非常に苦にしていました。いつも悪魔に試みられ、おまえは繰り返し繰り返し同じ失敗をしている、おまえはもう駄目な人間だと、言って来ます。けどある日、その人は自分の古き人が十字架につけられた夢を見ました。それからまた悪魔が攻めて来ましたが、この時十字架につけられた自らを指し示したところ、悪魔は逃げて行ってしまったということです。
十字架を見ると、そこにはイエス様だけではなく、我々の古き人もそこについているとロマ書6章6節に「私たちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」と書いてありますが、どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことができます。イエス様の勝利は完全な勝利です。イエス様は私たちの古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださったのです。パウロはガラテヤ書2章20節に「生きているのは私ではなく、キリストが私の内に住んでおられる」と言うことができたのです。
悪魔は我々に対して何の権利もない、「悪魔よ、退け」ということができます。あなたの持てる問題が何であろうとイエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて主の声を聞きましょう。そうして行くと、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるようになります。
(引用者註:前半の太字でお示しした部分は考えさせられるところだった。なぜなら、実が残るのはすべてイエス様とつながっている時にもたらされるもので、イエス様につながらずに、頼らずにどんなことをやっても結局実となって残らぬと言われているからである。さて「結」の部分はどのようにして締めくられるのでしょうか。それは明日のお楽しみです。GB[169]。)
また私たちは他人を見ることは要りません。これも長い間私たちのなしたことではないでしょうか。その結果は、人の顔を見ることに陥り、または人の機嫌を取ることに心を奪われてしまいます。それは不幸の道です。おそらくイエス様を信ずる者は皆ペテロの経験をするでしょう。ペテロはイエス様を見ながら、「あなたこそ生けるまことの神、キリストです」と言いましたけど、まもなくイエス様は同じペテロに言われたのです。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者だ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」人を見ることはすなわち人により頼むことです。すなわち、主に頼ることができません。人を見る目から離れてイエス様だけを見上げなさい。
また、私たちは境遇を見る必要がありません。もし私たちが境遇の面倒なことを見るとそれに支配されてしまいます。「わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ないからである」とイエス様は言われたのです。このみことばを信ずべきではないでしょうか。イエス様はここで何もできない。多くのこと出来ないと言われなかったのですね。何も出来ない。説教することができても、証しをすることができても、色んな奉仕をすることができても、けどその実は永久に残りません。イエス様の判断によると「少しも」残らない、わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ない。私たちは自分自身を見ることは要りません。他人を見ることは要りません。境遇を見る必要はありません。
罪とはいったい何なのでありましょうか。罪というギリシヤ語の意味の一つは「矢が的をはずれる」という意味です。同じようにイエス様を見ないことは的をはずれることです。すなわち、罪です。一つの実例を申し上げましょうか。それはずっと昔、前の前の話ですけど、1942年ソ連のスターリングラードであったことなんですけども、ドイツの軍隊33万人はスターリングラードの町の中に敵の軍隊によって包囲されていました。数週間後、軍隊、兵隊たちはもはや弾薬も食料もなくなったんです。馬も全部食べ尽くされました。最初はまだ病人と負傷者は飛行機で連れ出すことができたんです。もちろんその情勢は見込みがなかったんです。多くの兵士たちは故郷の家族を思い絶望しました。その中にイエス様を信ずる者ももちろんいましたし、これらの信者たちは敵や絶望的な状態を見ることなく、ただイエス様だけを見たのです。私の友だちの友人もそこにいまして、この方はこのような状態の中では何にも出来ないということを知って、これは「イエス様なしでは何も出来ない」ということばを良く知っていましたので、彼はまたこのことばの現実性を知っていたから、すなわち「私を強くしてくださる方によって何事でも出来る」と確信したのです。だから、彼はこのような絶望的な状態の中でさえ、次のような詩をつくることができたのです。
主イエスと共にあれば、毎日毎日が麗しくなる
それを私は体験し、経験する
将来何が起ころうとも主イエスに忠誠を尽くしたい
と、このような詩をつくったんです。彼はもちろんすぐあとでも殺されてしまったんです。けども、主に頼ることこそが力の源です。
最後にちょっとだけ自己否定の大切さについて、すなわち自分により頼まないことについて考えて終わりたいと思います。自己否定は自分の権利をささげることです。自分により頼まないことです。「私の心ではなくあなたの御心をなしてください。」これこそがイエス様の全生涯の変わらなかった態度だったんです。だからイエス様から恵みの流れ、いのちの泉が人々に分け与えられていたのです。私たちの考え、私たちの感情、私たちの意志すべて主のご支配のもとに置かれる時、私たちの内からいのちの泉が湧き出てくるはずです。我々の生まれながらの考え、感情、意志は決して霊的ではありません。これを御霊の支配にゆだねる時、初めてそれは御心にかなうものとなります。それらを主にささげることにより、霊的なものになります。自分自らの考え、感情、意志を、自分から主に決心してささげるのでなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ません。
大ぜいの人が一緒にする決心ではなく、一人ひとりが決心しなければならないことです。これは祈りによっては解決できないことでしょう。実際に行わなければならないことです。「主よ、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通してご自身の御心をなさしめてください」と言いたいものです。
創世記の中でアブラハムについて多くのこと書いていますけども、彼はイサクをささげる前に、そのイシュマエルと言う子どもをささげなければならなかったんですけど、多くの信ずる者は反対のことをしているのではないかと思うんですね。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげようと思っているのです。すなわち、自らの自分の力で、肉の力で主に仕えようとします。いわゆる聖めは罪からの解放よりもっと深く大きいものです。それは自分の意志を主にささげ、自分の支配を主にゆだねることです。アブラハムは勇気を奮い起こして、自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。そのあとでアブラハムにもたらされた祝福はどんなに大きかったことでしょう。
彼の勝利の生活を私たちも送るためには何をやったら良いのでありましょう。アブラハムと同じように自分の最も愛するものを主にささぐることによって勝利の生活を送ることができます。
ドイツにある一人のキリスト者がいますけど、この方は自分の生まれながらの性質を非常に苦にしていました。いつも悪魔に試みられ、おまえは繰り返し繰り返し同じ失敗をしている、おまえはもう駄目な人間だと、言って来ます。けどある日、その人は自分の古き人が十字架につけられた夢を見ました。それからまた悪魔が攻めて来ましたが、この時十字架につけられた自らを指し示したところ、悪魔は逃げて行ってしまったということです。
十字架を見ると、そこにはイエス様だけではなく、我々の古き人もそこについているとロマ書6章6節に「私たちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」と書いてありますが、どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことができます。イエス様の勝利は完全な勝利です。イエス様は私たちの古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださったのです。パウロはガラテヤ書2章20節に「生きているのは私ではなく、キリストが私の内に住んでおられる」と言うことができたのです。
悪魔は我々に対して何の権利もない、「悪魔よ、退け」ということができます。あなたの持てる問題が何であろうとイエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて主の声を聞きましょう。そうして行くと、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるようになります。
(引用者註:前半の太字でお示しした部分は考えさせられるところだった。なぜなら、実が残るのはすべてイエス様とつながっている時にもたらされるもので、イエス様につながらずに、頼らずにどんなことをやっても結局実となって残らぬと言われているからである。さて「結」の部分はどのようにして締めくられるのでしょうか。それは明日のお楽しみです。GB[169]。)
2017年2月6日月曜日
実を結ぶ人生(承)
先ず誰でもイエス様のところに来なければならないから、彼から離れてはまことのクリスチャンであることはできません。この15章の姿をご覧くださいますと、イエス様自身がまことのぶどうの木で、そしてあなたがたは、すなわち信ずる者はその枝である、と言われています。これは有機体を意味するんですね。そして組織的な関係じゃないんですね。イエス様は木であり、信ずる者はその枝である。木の幹はその枝に力を送って枝が多くの実を結ぶことができるのです。ぶどうの幹に力といのちが満ちているのであります。
パウロは私たちの主と私たちとの関係をコロサイ書2章9節と10節でもって次のようなことばで表現していますね。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
と、書いてあります。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、(結局、キリストと結びついている者であるから)満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」と。そして前に読みましたヨハネ伝15章5節に
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
これは努力の結果ではなく、つながっている結果です。当然です。主の中に力といのちが満ち満ちています。主は私たちの内に生きておられ、そして私たちをとおして実を結ぼうと望んでおられます。私たちはその満ち足るものを受けるために生きたつながりを保っていなければならない。だからこの5節の後半に「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。
私たちのうち、もっとも足りないことはいったい何でしょうか。それは私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画をしようとする独立の精神だけがあってイエス様によりかかる心がないことではないでしょうか。イエス様がペテロに次のように言われたことがありますけども、ヨハネ伝の21章、良く知られていることばですけども、ペテロはその時、もちろんこのことばの意味を理解することができなかったと思います。206頁です。ヨハネ伝21章の18節です。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
と、あります。このことばは私たちも必ずいつか体験しなければならないのでありましょう。全く主によりかかるということが、実を結ぶことと、力を持つこととの秘訣であります。
主によりかかることがまことの自由です。私たちは果たして自ら貧しいことを知っているのでありましょうか。私たちは何事もできない者です。けれども主イエス様は私たちのうちにあって行動者となり、愛する者となり、祈祷者とならんことを切に望んでおられるのであります。この無限の富を前にして私たちは乞食のようではないでしょうか。主によりかかることは、泉につながっていることを意味しています。そしてイエス様こそが泉そのものです。我々の慰めの泉であると聖書は言っています。マタイ伝11章の中でイエス様は「重荷を負って苦労している者は、いろいろなことで悩んでいる者は、わたしのところに来なさい。わたしは休ませてあげます。わたしこそがまことの慰めの泉である」と。この悩める世には無数の人が慰めを求めています。けど、誰もまた何にもこれに答えるものはありません。しかし、イエス様は呼びかけておられます。「わたしのもとに来なさい。わたしは休ませてあげます。まことの慰めを与えます」と。
またイエス様は力の源であります。力の泉です。前に読みましたコロサイ書2章9節からもう一回読みます。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
と、書き記されているんです。私たちは能力と権力を必要とします。主はこれらのものの所有者であり、イエス様こそが力の泉そのものであられます。もちろん、イエス様は罪の赦しの源であり、泉であられます。イエス様だけが神の権威を持って「あなたの罪は赦されたのだ」と言える方であります。
罪の赦しを欲しいと思う人は、先ず自らは罪人であると知らなければなりません。もちろん、自分は罪人だ、過ちを犯した者だと認めることだけでは十分ではありません。イエス様はあなたにどんな罪を犯したかとお訊ねになります。自分はかつて聖い主なる神とあなたとの間にいかに大きな隔たりがあることを感ぜられたことがあるなのでありましょうか。自分の過ちを告白したことがあるなのでありましょうか。隠す者は成功しない。言い表わすと恵みを受けると聖書全体は約束しています。もし私たちは自分の罪を言い表わすと神はその罪を赦してくださり、受け入れてくださる、と書き記されています。ですから、言いあらわした後で、神は赦してくださった、と素直に信ずることができる。どうしてであるかと言いますと聖書がそう言っているからであります。神は嘘を知らない方であるのです。
またイエス様は平和の泉そのものであります。現代の世界の国々は皆「平和」「平和」と宣伝します。平和会議を招集します。けども、そういう人々はイエス様だけが平和の源そのものであることを忘れているのです。パウロは「キリストこそ私たちの平和です」と確信をもって、経験者として言うことができたのです。イエス様によりかかるということが、慰め、力、罪の赦しと平和の源に連結していると言う事実を覚えましょう。
イエス様により頼む秘訣はいったい何なのでありましょうか。ヘブル書の12章の2節に次のように書いてありますが、ヘブル人への手紙の12章の2節です。良く知られていることばです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
「イエスから目を離さないこと」です。これこそがもっとも大切であり、主により頼む秘訣です。主によりかかるというのは、すなわちイエス様だけを仰ぎ見ることです。イエス様が私たちのために十字架につけられただけでなく、イエス様はほんとうに復活なさったのです。イエス様は死を克服してくださったお方です。そしてイエス様は神の御座の右に座しておられる方です、と。その御座とは栄光の場所であります。イエス様はいつも主なる神の御心にかなうお方でありました。十字架をさえ忍ばれたので、天にお帰りになった時、父なる神はイエス様をその一番高い栄光の場所を与えられたのであります。ピリピ書によると「神は彼を高く引き上げて、すべての名にまさる名を主イエス様に賜わった」と書いてあります。またイエス様は「罪の聖めのわざをなし終えてから、いと高きところにいます大能者の右の座に着かれた」と書いてあります。この御座とはほんとうに栄光の場であり、生ける場であり、力の場であります。イエス様はこの世におられた時、次のように言うことができたのです。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた」と。
我々の主が、栄光の場、生ける場、力の場に座しておられるお方です。その主によりかかる人が、あえて不思議とするところでない、次のように宣言することができます。ピリピ書4章「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」「私はすべてのものを受けて有り余るほどである」とパウロは言うことができたのです。「私は神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださる」とあります。そのように宣言することの出来る秘訣は主によりかかることです。そのより頼むのは信ずる者の幸せです。イエス様から離れては何一つできないのである。けど、イエス様とともなれば何事もできるということです。ヘブル書2章9節に次のようなことばが書いています。390頁ですね。イエス様を見上げる必要性についての箇所です。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。
と書いてあります。イエスのことは見ている。大切なのはそれなんです。詩篇の34篇の5節に
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
主を仰ぎ見ると彼らは輝いた・・・・
(引用者註:GB[168]。今日の引用者註は「泉あるところⅡ」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/に載せた。 )
パウロは私たちの主と私たちとの関係をコロサイ書2章9節と10節でもって次のようなことばで表現していますね。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
と、書いてあります。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、(結局、キリストと結びついている者であるから)満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」と。そして前に読みましたヨハネ伝15章5節に
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
これは努力の結果ではなく、つながっている結果です。当然です。主の中に力といのちが満ち満ちています。主は私たちの内に生きておられ、そして私たちをとおして実を結ぼうと望んでおられます。私たちはその満ち足るものを受けるために生きたつながりを保っていなければならない。だからこの5節の後半に「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。
私たちのうち、もっとも足りないことはいったい何でしょうか。それは私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画をしようとする独立の精神だけがあってイエス様によりかかる心がないことではないでしょうか。イエス様がペテロに次のように言われたことがありますけども、ヨハネ伝の21章、良く知られていることばですけども、ペテロはその時、もちろんこのことばの意味を理解することができなかったと思います。206頁です。ヨハネ伝21章の18節です。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
と、あります。このことばは私たちも必ずいつか体験しなければならないのでありましょう。全く主によりかかるということが、実を結ぶことと、力を持つこととの秘訣であります。
主によりかかることがまことの自由です。私たちは果たして自ら貧しいことを知っているのでありましょうか。私たちは何事もできない者です。けれども主イエス様は私たちのうちにあって行動者となり、愛する者となり、祈祷者とならんことを切に望んでおられるのであります。この無限の富を前にして私たちは乞食のようではないでしょうか。主によりかかることは、泉につながっていることを意味しています。そしてイエス様こそが泉そのものです。我々の慰めの泉であると聖書は言っています。マタイ伝11章の中でイエス様は「重荷を負って苦労している者は、いろいろなことで悩んでいる者は、わたしのところに来なさい。わたしは休ませてあげます。わたしこそがまことの慰めの泉である」と。この悩める世には無数の人が慰めを求めています。けど、誰もまた何にもこれに答えるものはありません。しかし、イエス様は呼びかけておられます。「わたしのもとに来なさい。わたしは休ませてあげます。まことの慰めを与えます」と。
またイエス様は力の源であります。力の泉です。前に読みましたコロサイ書2章9節からもう一回読みます。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
と、書き記されているんです。私たちは能力と権力を必要とします。主はこれらのものの所有者であり、イエス様こそが力の泉そのものであられます。もちろん、イエス様は罪の赦しの源であり、泉であられます。イエス様だけが神の権威を持って「あなたの罪は赦されたのだ」と言える方であります。
罪の赦しを欲しいと思う人は、先ず自らは罪人であると知らなければなりません。もちろん、自分は罪人だ、過ちを犯した者だと認めることだけでは十分ではありません。イエス様はあなたにどんな罪を犯したかとお訊ねになります。自分はかつて聖い主なる神とあなたとの間にいかに大きな隔たりがあることを感ぜられたことがあるなのでありましょうか。自分の過ちを告白したことがあるなのでありましょうか。隠す者は成功しない。言い表わすと恵みを受けると聖書全体は約束しています。もし私たちは自分の罪を言い表わすと神はその罪を赦してくださり、受け入れてくださる、と書き記されています。ですから、言いあらわした後で、神は赦してくださった、と素直に信ずることができる。どうしてであるかと言いますと聖書がそう言っているからであります。神は嘘を知らない方であるのです。
またイエス様は平和の泉そのものであります。現代の世界の国々は皆「平和」「平和」と宣伝します。平和会議を招集します。けども、そういう人々はイエス様だけが平和の源そのものであることを忘れているのです。パウロは「キリストこそ私たちの平和です」と確信をもって、経験者として言うことができたのです。イエス様によりかかるということが、慰め、力、罪の赦しと平和の源に連結していると言う事実を覚えましょう。
イエス様により頼む秘訣はいったい何なのでありましょうか。ヘブル書の12章の2節に次のように書いてありますが、ヘブル人への手紙の12章の2節です。良く知られていることばです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
「イエスから目を離さないこと」です。これこそがもっとも大切であり、主により頼む秘訣です。主によりかかるというのは、すなわちイエス様だけを仰ぎ見ることです。イエス様が私たちのために十字架につけられただけでなく、イエス様はほんとうに復活なさったのです。イエス様は死を克服してくださったお方です。そしてイエス様は神の御座の右に座しておられる方です、と。その御座とは栄光の場所であります。イエス様はいつも主なる神の御心にかなうお方でありました。十字架をさえ忍ばれたので、天にお帰りになった時、父なる神はイエス様をその一番高い栄光の場所を与えられたのであります。ピリピ書によると「神は彼を高く引き上げて、すべての名にまさる名を主イエス様に賜わった」と書いてあります。またイエス様は「罪の聖めのわざをなし終えてから、いと高きところにいます大能者の右の座に着かれた」と書いてあります。この御座とはほんとうに栄光の場であり、生ける場であり、力の場であります。イエス様はこの世におられた時、次のように言うことができたのです。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた」と。
我々の主が、栄光の場、生ける場、力の場に座しておられるお方です。その主によりかかる人が、あえて不思議とするところでない、次のように宣言することができます。ピリピ書4章「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」「私はすべてのものを受けて有り余るほどである」とパウロは言うことができたのです。「私は神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださる」とあります。そのように宣言することの出来る秘訣は主によりかかることです。そのより頼むのは信ずる者の幸せです。イエス様から離れては何一つできないのである。けど、イエス様とともなれば何事もできるということです。ヘブル書2章9節に次のようなことばが書いています。390頁ですね。イエス様を見上げる必要性についての箇所です。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。
と書いてあります。イエスのことは見ている。大切なのはそれなんです。詩篇の34篇の5節に
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
主を仰ぎ見ると彼らは輝いた・・・・
(引用者註:GB[168]。今日の引用者註は「泉あるところⅡ」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/に載せた。 )
2017年2月5日日曜日
実を結ぶ人生(起)
キリスト者の使命について学んだんですけど、今まで四回にわたって次の点についてご一緒に学んでたんですけど、先ず主に対する礼拝、それから人に仕える奉仕、それから悪の霊に対する戦い、そして先週は、教会、すなわち兄弟姉妹の交わりについて考えたんですけど、今日は「実を結ぶ人生」について少しだけご一緒に考えてみたいと思います。
救われた人々は救われるためだけに救われたのでなく、キリスト者の人生は実を結ぶ人生であるべきです。ちょっと三つの点に分けたいと思うんですね。この世に対してのキリスト者のあり方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違こそが一つの大切な面だと思うんです。そして二番目は主にだけよりかかることも非常に大切なことであり、それから自己否定、自分により頼まないことも非常に大切であります。
この世に対してのキリスト者のあり方について考えると、ピリピ人3章8節はその答えになるのではないかと、思うんですね。今お読みになりました箇所、もう一回お読み致します。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
こういう風に、パウロは証しするようになったのです。パウロはこのことばのうちに主を知ることのいかにすぐれているか、またいかに価値あることであるか 、それから主を知るためにはいかに多くの価を払わなければいけないかを述べています。パウロはここでこれらのものをあくたの如く思うと言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは決して決して小さなものではなかったんです。それはパウロの立場、パウロの能力その時にもうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。知恵や名誉や学識は問題ではなくなり、イエス様を知ること、イエス様をより良く知ることがパウロのすべてとなったのです。ために、主を知るためにパウロは多くの価を払わなければいかなかったんです。
パウロはかつて多くの人にほめそやされ、敬われていたんですけど、いったんイエス様の証し人となるや、それらの人々はパウロから離れてしまったばかりではなく、パウロを迫害視さえするようにさえなったのです。価が払わなければいけなかったんです。パウロは主と他の自ら身につけたものとを良ーく比較して、そして検討した結果、主の方を選び取りました。パウロは心の中で、自ら自分は他の者と違うことを確信していました。世人と全く異種の者であることを自覚してたのです。ヨハネ伝の中でイエス様は17章16節に
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではない
と、言われたのです。イエス様を受け入れた人々は全く世の人と違った異種の者であるべきです。
おとといの前夜祈祷式、また夕べの前夜祈祷式もそうはっきり感じました。やっぱり主を信ずる者とそうでない者との間には全く違うということです。もちろん私たちは未信者と一緒に生活しなければなりませんけども、イエス様によって救われていない人々と同じではありません。もし私たちがこの世の人々を主に導く者となりたければ、自分はこの世とは全く違った者であることをいつも自覚しなければいけません。もし少しでもこの世と妥協するところがあるなら、主なる神はその人を用いることができません。
イエス様はこの世に生きておられた時、他の人間には見られない友情とあわれみに富んだお方だったのであります。けども他の人間と本質的にイエス様は違ったお方でした。「わたしは世のものではない」とイエス様は何回も何回も言われたのです。イエス様は自分は彼らと違う、いつもこの自覚を持っておられました。これはイエス様のご奉仕の力の源でもあったのです。この内面的な相違こそキリスト者の生涯の力の秘訣です。もし私たちはこの世の人々と本質的に違うということを深く知るならば、何とかしてこの人々を主の国に導きたいという深い願いを持つようになります。もし私たちが主に喜ばれるしもべとして生きたいとするならはっきりした態度を取る必要があります。
私たちが心の中に正しい態度を持つということは決して簡単なことではありません。けども今日神はこの地上にはっきりとした態度を取る人を探し求めておられます。はっきりとした態度を取ることはもちろん1900年前にも同じく簡単ではありませんでした。イエス様の弟子たちについて次のこと言えます。たとえばペテロが殺される時、自分はイエス様と同じ死に方はしたくない、イエス様よりも悪い死に方であるべきと言って、逆さはりつけになったと言われています。ヤコブはヘロデ王によって首を切られて死んだと伝えられています。ヨハネはパトモス島に島流しになり最後を遂げたそうです。アンデレは十字架にかかり最後を遂げたと伝えられています。ピリポも火あぶりにされて殺され、バルトロマイは打ち殺され、トマスはまた刺しで殺されたと伝えられています。マタイはエチオピアで殺され、他のヤコブはエジプトで十字架につけられ、ユダの一人はペルシヤで殺されました。シモンはこれまた十字架で最後を遂げたと言われています。
この主の弟子たちは主と他のもの、この世に属するものをよーく比較検討した結果、皆主を選び取ったのです。もちろんパウロも同じ態度を取ったのです。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」我々の目ざすところはいったいどこにあるのでありましょうか。有名になることでしょうか。世に知られることでしょうか。ほめられることでしょうか。あるいは主のしもべとして用いられたい、主だけが中心になってもらいたいという願いを持っているのでありましょうか。内面的な相違こそが生き生きとした証しであります。
次に主にだけよりかかることも非常に大切でありますが、先週ちょっとヨハネ伝15章から読んだんですけど、もう一回ちょっと1節からお読み致します。良く知られている箇所ですけど、単なるたとえ話よりも、キリストの使命とはどういうものであるか、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるか、この箇所をとおしてはっきり知ることができると思います。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
と、書き記されています。この箇所を見ると、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかと、はっきり知ることができるのです。5節は非常に大切なところです。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないという箇所です。どんな宗教でも何かをしようとしています。どんな宗教もそれぞれに教理を持っています。そしてそれぞれの信者たちはその教理を我がものにしようと努力するでしょう。けど、キリスト教をこれらの宗教に比べるとキリスト教の場合は、ただ教理ばかりではなく、生きておられるイエス様ご自身を知ることは大切であります。ヘブル書の中で「主イエスは昨日も今日もいつまでも変わらないお方である」と書いています。このいつまでも変わらないお方ご自身を知ることこそが大切です。
もし、私たちがある教え、ある教理を実行しようと努力するのは、それはいわゆるキリスト教の出発でなくて、人々がイエス様のもとへ来ることが出発である。ですから、イエス様は決して本物を得るためにわたしの教えを研究せよ、理解せよと言ったことがありません。いつもただありのままの状態で主のところに来なさい。イエス様のところに行った人は皆イエス様御自身を知るようになり、すなわちイエス様によって受け入れられ、癒され、回復されたのです。
(引用者註:私がベック兄とお会いしたのは1990年だが、その時、ベック兄はすでに「キリスト教」という宗教が人々をイエス様のみもとに来させないようにしている元凶だと公言されていた。それにくらべると、このメッセージは「キリスト教」を尊重しながら、人々が既成概念に毒されないようにと、細心の配慮をもって語っておられることが分かる。GB[167]。)
救われた人々は救われるためだけに救われたのでなく、キリスト者の人生は実を結ぶ人生であるべきです。ちょっと三つの点に分けたいと思うんですね。この世に対してのキリスト者のあり方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違こそが一つの大切な面だと思うんです。そして二番目は主にだけよりかかることも非常に大切なことであり、それから自己否定、自分により頼まないことも非常に大切であります。
この世に対してのキリスト者のあり方について考えると、ピリピ人3章8節はその答えになるのではないかと、思うんですね。今お読みになりました箇所、もう一回お読み致します。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
こういう風に、パウロは証しするようになったのです。パウロはこのことばのうちに主を知ることのいかにすぐれているか、またいかに価値あることであるか 、それから主を知るためにはいかに多くの価を払わなければいけないかを述べています。パウロはここでこれらのものをあくたの如く思うと言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは決して決して小さなものではなかったんです。それはパウロの立場、パウロの能力その時にもうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。知恵や名誉や学識は問題ではなくなり、イエス様を知ること、イエス様をより良く知ることがパウロのすべてとなったのです。ために、主を知るためにパウロは多くの価を払わなければいかなかったんです。
パウロはかつて多くの人にほめそやされ、敬われていたんですけど、いったんイエス様の証し人となるや、それらの人々はパウロから離れてしまったばかりではなく、パウロを迫害視さえするようにさえなったのです。価が払わなければいけなかったんです。パウロは主と他の自ら身につけたものとを良ーく比較して、そして検討した結果、主の方を選び取りました。パウロは心の中で、自ら自分は他の者と違うことを確信していました。世人と全く異種の者であることを自覚してたのです。ヨハネ伝の中でイエス様は17章16節に
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではない
と、言われたのです。イエス様を受け入れた人々は全く世の人と違った異種の者であるべきです。
おとといの前夜祈祷式、また夕べの前夜祈祷式もそうはっきり感じました。やっぱり主を信ずる者とそうでない者との間には全く違うということです。もちろん私たちは未信者と一緒に生活しなければなりませんけども、イエス様によって救われていない人々と同じではありません。もし私たちがこの世の人々を主に導く者となりたければ、自分はこの世とは全く違った者であることをいつも自覚しなければいけません。もし少しでもこの世と妥協するところがあるなら、主なる神はその人を用いることができません。
イエス様はこの世に生きておられた時、他の人間には見られない友情とあわれみに富んだお方だったのであります。けども他の人間と本質的にイエス様は違ったお方でした。「わたしは世のものではない」とイエス様は何回も何回も言われたのです。イエス様は自分は彼らと違う、いつもこの自覚を持っておられました。これはイエス様のご奉仕の力の源でもあったのです。この内面的な相違こそキリスト者の生涯の力の秘訣です。もし私たちはこの世の人々と本質的に違うということを深く知るならば、何とかしてこの人々を主の国に導きたいという深い願いを持つようになります。もし私たちが主に喜ばれるしもべとして生きたいとするならはっきりした態度を取る必要があります。
私たちが心の中に正しい態度を持つということは決して簡単なことではありません。けども今日神はこの地上にはっきりとした態度を取る人を探し求めておられます。はっきりとした態度を取ることはもちろん1900年前にも同じく簡単ではありませんでした。イエス様の弟子たちについて次のこと言えます。たとえばペテロが殺される時、自分はイエス様と同じ死に方はしたくない、イエス様よりも悪い死に方であるべきと言って、逆さはりつけになったと言われています。ヤコブはヘロデ王によって首を切られて死んだと伝えられています。ヨハネはパトモス島に島流しになり最後を遂げたそうです。アンデレは十字架にかかり最後を遂げたと伝えられています。ピリポも火あぶりにされて殺され、バルトロマイは打ち殺され、トマスはまた刺しで殺されたと伝えられています。マタイはエチオピアで殺され、他のヤコブはエジプトで十字架につけられ、ユダの一人はペルシヤで殺されました。シモンはこれまた十字架で最後を遂げたと言われています。
この主の弟子たちは主と他のもの、この世に属するものをよーく比較検討した結果、皆主を選び取ったのです。もちろんパウロも同じ態度を取ったのです。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」我々の目ざすところはいったいどこにあるのでありましょうか。有名になることでしょうか。世に知られることでしょうか。ほめられることでしょうか。あるいは主のしもべとして用いられたい、主だけが中心になってもらいたいという願いを持っているのでありましょうか。内面的な相違こそが生き生きとした証しであります。
次に主にだけよりかかることも非常に大切でありますが、先週ちょっとヨハネ伝15章から読んだんですけど、もう一回ちょっと1節からお読み致します。良く知られている箇所ですけど、単なるたとえ話よりも、キリストの使命とはどういうものであるか、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるか、この箇所をとおしてはっきり知ることができると思います。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
と、書き記されています。この箇所を見ると、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかと、はっきり知ることができるのです。5節は非常に大切なところです。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないという箇所です。どんな宗教でも何かをしようとしています。どんな宗教もそれぞれに教理を持っています。そしてそれぞれの信者たちはその教理を我がものにしようと努力するでしょう。けど、キリスト教をこれらの宗教に比べるとキリスト教の場合は、ただ教理ばかりではなく、生きておられるイエス様ご自身を知ることは大切であります。ヘブル書の中で「主イエスは昨日も今日もいつまでも変わらないお方である」と書いています。このいつまでも変わらないお方ご自身を知ることこそが大切です。
もし、私たちがある教え、ある教理を実行しようと努力するのは、それはいわゆるキリスト教の出発でなくて、人々がイエス様のもとへ来ることが出発である。ですから、イエス様は決して本物を得るためにわたしの教えを研究せよ、理解せよと言ったことがありません。いつもただありのままの状態で主のところに来なさい。イエス様のところに行った人は皆イエス様御自身を知るようになり、すなわちイエス様によって受け入れられ、癒され、回復されたのです。
(引用者註:私がベック兄とお会いしたのは1990年だが、その時、ベック兄はすでに「キリスト教」という宗教が人々をイエス様のみもとに来させないようにしている元凶だと公言されていた。それにくらべると、このメッセージは「キリスト教」を尊重しながら、人々が既成概念に毒されないようにと、細心の配慮をもって語っておられることが分かる。GB[167]。)
2017年2月4日土曜日
教会の交わり(下)
ほんとうの交わりはいつから始まったかと言いますと、もちろん使徒行伝2章に書かれている五旬節の時です。彼らは聖霊によってひとつにされた時、すなわち彼らは聖霊の宮になることによって、ほんとうの意味で交わりが始まったのです。
その時から弟子たちは完全に変わったのです。五旬節から弟子たちはほんとうの意味で交わりを持つようになったのです。たとえばペテロが立ち上がった時、他の11人もともに立ち上がったと書いてあります。前に相談してああしようこうしようと賛成した結果ではなく、自発的にそうなったのです。彼らは一つになったんです。12人は12人の別の人々ではなかったのです。皆一つだったんです。結局12人の人たちは12人の一人一人ではなく、12人がひとつのからだを成したのです。
五旬節の日の立役者はペテロだったんですけども、聖書を見るとペテロだけが目立った、中心だった、と書いていません。人々は皆を見て驚いたと書いていません。ペテロを見て大したもんだと言うことでなく、皆を見て驚かれたとあります。ですから、五旬節はいわゆる教会の誕生日です。まことの交わりの始まりであります。この時からは、信者はもはや一人一人バラバラでなく、イエス様をかしらとする肢体につづり合わされたのです。ペテロと他の弟子たちはほんとうに一つだったんです。彼らは霊の交わりを持っていたのです。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるといったことは見受けられないのです。この交わりはもちろん外から来るのでなく、内に住みたもう御霊のゆえに生まれた交わりだったんです。
交わりとはすべてを共有にすることです。初代の教会のクリスチャンたちはほんとうに一つだったのです。だから、彼らは生き生きとした証しだったのであり、だから、まわりの人々は「兄弟たち。私はどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らは特別伝道集会を持とうとしなかったのです。福音を宣べ伝えようということよりも、彼らは先ず一つにした結果、まわりの人々は求めるようになったのです。「どうしたらいいの。教えてください。導いてください。」これは兄弟姉妹の霊の交わりの結果だったのです。
弟子たちはイエス様とともに過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしてきたのです。これは交わりに入る準備期間だったんです。この三年間、実りのない三年間のように見えるかも知れませんけど、この三年間の年月の間に彼らの古い性質は少しずつ取り除かれたのです。もし弟子がイエス様に従わず、自分の職業を持っていたならば、彼らは皆やっぱり信心深い人として立派な人格者として尊敬されながら生涯を終わったことでありましょう。けどもイエス様とともに歩んでいたから、彼らは自分の姿を教えられ、イエス様のみもとで本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ彼らの心の暗いところは段々取り扱われ、明るみに出されました。彼らの心に隠された思いが現われてきました。もちろん弟子たちは他の人々よりも悪い人々ではなかったんですけど、主の光に照らされた時、絶望的な自分の真相を教えられたのです。
イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全く絶望してしまったのです。その時、彼らは皆逃げてしまったと聖書は言っているのですね。一つの群れとして逃げたのではない、と思うんですね。皆バラバラになって逃げてしまったと思います。けどもこのいわゆる破産はどうしても彼らに必要だったんではないかと思います。用いられるために。霊的破産なくしては誰も主との生きた交わりを持つことは出来ません。霊的破産してしまいますともうおしまいです、駄目です。主が助けてくださらなければ終わりだと分かっている人こそがほんとうの意味で主に頼るようになります。すなわち主との交わりの尊さを理解するようになるのです。
我々のすべきことは本当に余り大切ではない。大切なのは主のなしたもうた救いの御業です。主は救いの代価を払ってくださったから、主は生きておられる、主は必要な時、必要なものを提供していてくださるから、だから安心して将来に向かうことができるのです。破産すること、自分の惨めさを本当に知ることこそが用いられるための秘訣です。多くの信ずる者は、自分で意識しないかも知れないけど、自分の力で自分のためにいろんなことをやります。イエス様は私たちの身代わりに死に、私たちのために復活なさり、そしてすべての背後に支配しておられる万物の支配者であられます。どうしてでありましょうか。それは私たちを変えて、聖霊により、そして主のために御霊を通してすべてのことを行うようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためであります。
何か事が起こるといつも主の御前に行き、私は何もできません、あなたは私の内にある柔和であり、謙遜であり、愛であり、すべてですから、どうか、あなたがこのことを解決を与えて下さい、というのが、御霊によって歩む人の特徴です。主との交わりを持っている人の特徴です。もし私たちが無力になって何もやらないと御霊が代わりになしていてくださるのです。傲慢と主に依存する気持ちのないことが私たちの信仰生活を一番大きく妨げています。あなたは、その自分の傲慢を認め、その傲慢は神の嫌われることであることを知り、また主はあなたの傲慢のために十字架につけられたことを悟るならば、あなたは主に感謝するはずです。主を真心から礼拝せざるを得なくなるでしょう。
イエス様は父なる神に完全に頼っていました。子は父のなさるのを見てする以外に自分からは何事もすることができないとイエス様は告白してくださったのです。私たちは既に自分に頼る事をやめましたでしょうか。イエス様はわたしから離れてはあなたがたは何一つできないと言われたのです。ヨハネ伝15章の5節です。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。結局何をやっても永久的な実が残らない、ということです。イエス様がこれを言われたのですから、このことばは嘘ではなく真理です。ですから、私たちは他に何か試みる必要はありません。もし私たちが試みるならばそれは罪です。
今日学びました交わりの秘訣・秘密とはいったいどういうものなのでありましょうか。聖書は次のように言っています。彼が光でいますように、我々も光の中を歩むならば、まことの交わりを持つ、と書いてあります。すなわち光のうちを歩むことこそが交わりの秘密です。多くの信ずる者の悩みは光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいることではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれながらのものは徹底的に駄目であり、役に立たない汚れたものであることがわかるようになります。もしイエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりももちろん正しくなります。
この交わりとはどういうものであるかと言いますと、ひとことばで言いますと、光の交わりです。いのちの交わりです。愛の交わりです。イエス様から離れては私たちはまことの実を結ぶことができませんし、お互いに愛することも出来ませんし、また世に対してはっきりとした態度をも取ることが出来ません。
一つのことを覚えましょう。すなわち私たちに必要なのはイエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様はいのちであり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。聖きとは何でしょうか。私たちは段々少しずつ聖くなることですか。決してそうではありません。これは聖きの実です。現れです。主とのつながっていることの結果です。聖きは主イエス様ご自身です。コリント第一の手紙の中で、「キリストは神に立てられ、我々の知恵となり、義と聖と贖いとになられた」と書いてあります。私たちが忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐はイエス様ご自身です。私たちに聖きと愛が欠けているのでありましょうか。イエス様は愛であり聖きであられます。主にまかせることと、自分で試みることとの間には本当に天国と地獄ほどの差があります。主に頼ること、すべてを主に明け渡すことこそが、まことの交わりの秘訣であります。
(引用者註:このメッセージは[下]の部分の引用聖句が口語訳聖書からなされています。[上][中]がそうでなく、新改訳聖書からですので、この部分のベック兄の草稿は1970年以前のものと思われます。ベックさんにとっては一人一人の信者が「霊的破産」を経験しているかどうかは、主のご栄光をあらわすためにどうしても必要だと12弟子の経験をとおして洞察しておられ、その思いで一人一人を愛し見ておられたのだと思わされました。GB[166]。)
その時から弟子たちは完全に変わったのです。五旬節から弟子たちはほんとうの意味で交わりを持つようになったのです。たとえばペテロが立ち上がった時、他の11人もともに立ち上がったと書いてあります。前に相談してああしようこうしようと賛成した結果ではなく、自発的にそうなったのです。彼らは一つになったんです。12人は12人の別の人々ではなかったのです。皆一つだったんです。結局12人の人たちは12人の一人一人ではなく、12人がひとつのからだを成したのです。
五旬節の日の立役者はペテロだったんですけども、聖書を見るとペテロだけが目立った、中心だった、と書いていません。人々は皆を見て驚いたと書いていません。ペテロを見て大したもんだと言うことでなく、皆を見て驚かれたとあります。ですから、五旬節はいわゆる教会の誕生日です。まことの交わりの始まりであります。この時からは、信者はもはや一人一人バラバラでなく、イエス様をかしらとする肢体につづり合わされたのです。ペテロと他の弟子たちはほんとうに一つだったんです。彼らは霊の交わりを持っていたのです。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるといったことは見受けられないのです。この交わりはもちろん外から来るのでなく、内に住みたもう御霊のゆえに生まれた交わりだったんです。
交わりとはすべてを共有にすることです。初代の教会のクリスチャンたちはほんとうに一つだったのです。だから、彼らは生き生きとした証しだったのであり、だから、まわりの人々は「兄弟たち。私はどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らは特別伝道集会を持とうとしなかったのです。福音を宣べ伝えようということよりも、彼らは先ず一つにした結果、まわりの人々は求めるようになったのです。「どうしたらいいの。教えてください。導いてください。」これは兄弟姉妹の霊の交わりの結果だったのです。
弟子たちはイエス様とともに過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしてきたのです。これは交わりに入る準備期間だったんです。この三年間、実りのない三年間のように見えるかも知れませんけど、この三年間の年月の間に彼らの古い性質は少しずつ取り除かれたのです。もし弟子がイエス様に従わず、自分の職業を持っていたならば、彼らは皆やっぱり信心深い人として立派な人格者として尊敬されながら生涯を終わったことでありましょう。けどもイエス様とともに歩んでいたから、彼らは自分の姿を教えられ、イエス様のみもとで本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ彼らの心の暗いところは段々取り扱われ、明るみに出されました。彼らの心に隠された思いが現われてきました。もちろん弟子たちは他の人々よりも悪い人々ではなかったんですけど、主の光に照らされた時、絶望的な自分の真相を教えられたのです。
イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全く絶望してしまったのです。その時、彼らは皆逃げてしまったと聖書は言っているのですね。一つの群れとして逃げたのではない、と思うんですね。皆バラバラになって逃げてしまったと思います。けどもこのいわゆる破産はどうしても彼らに必要だったんではないかと思います。用いられるために。霊的破産なくしては誰も主との生きた交わりを持つことは出来ません。霊的破産してしまいますともうおしまいです、駄目です。主が助けてくださらなければ終わりだと分かっている人こそがほんとうの意味で主に頼るようになります。すなわち主との交わりの尊さを理解するようになるのです。
我々のすべきことは本当に余り大切ではない。大切なのは主のなしたもうた救いの御業です。主は救いの代価を払ってくださったから、主は生きておられる、主は必要な時、必要なものを提供していてくださるから、だから安心して将来に向かうことができるのです。破産すること、自分の惨めさを本当に知ることこそが用いられるための秘訣です。多くの信ずる者は、自分で意識しないかも知れないけど、自分の力で自分のためにいろんなことをやります。イエス様は私たちの身代わりに死に、私たちのために復活なさり、そしてすべての背後に支配しておられる万物の支配者であられます。どうしてでありましょうか。それは私たちを変えて、聖霊により、そして主のために御霊を通してすべてのことを行うようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためであります。
何か事が起こるといつも主の御前に行き、私は何もできません、あなたは私の内にある柔和であり、謙遜であり、愛であり、すべてですから、どうか、あなたがこのことを解決を与えて下さい、というのが、御霊によって歩む人の特徴です。主との交わりを持っている人の特徴です。もし私たちが無力になって何もやらないと御霊が代わりになしていてくださるのです。傲慢と主に依存する気持ちのないことが私たちの信仰生活を一番大きく妨げています。あなたは、その自分の傲慢を認め、その傲慢は神の嫌われることであることを知り、また主はあなたの傲慢のために十字架につけられたことを悟るならば、あなたは主に感謝するはずです。主を真心から礼拝せざるを得なくなるでしょう。
イエス様は父なる神に完全に頼っていました。子は父のなさるのを見てする以外に自分からは何事もすることができないとイエス様は告白してくださったのです。私たちは既に自分に頼る事をやめましたでしょうか。イエス様はわたしから離れてはあなたがたは何一つできないと言われたのです。ヨハネ伝15章の5節です。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。結局何をやっても永久的な実が残らない、ということです。イエス様がこれを言われたのですから、このことばは嘘ではなく真理です。ですから、私たちは他に何か試みる必要はありません。もし私たちが試みるならばそれは罪です。
今日学びました交わりの秘訣・秘密とはいったいどういうものなのでありましょうか。聖書は次のように言っています。彼が光でいますように、我々も光の中を歩むならば、まことの交わりを持つ、と書いてあります。すなわち光のうちを歩むことこそが交わりの秘密です。多くの信ずる者の悩みは光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいることではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれながらのものは徹底的に駄目であり、役に立たない汚れたものであることがわかるようになります。もしイエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりももちろん正しくなります。
この交わりとはどういうものであるかと言いますと、ひとことばで言いますと、光の交わりです。いのちの交わりです。愛の交わりです。イエス様から離れては私たちはまことの実を結ぶことができませんし、お互いに愛することも出来ませんし、また世に対してはっきりとした態度をも取ることが出来ません。
一つのことを覚えましょう。すなわち私たちに必要なのはイエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様はいのちであり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。聖きとは何でしょうか。私たちは段々少しずつ聖くなることですか。決してそうではありません。これは聖きの実です。現れです。主とのつながっていることの結果です。聖きは主イエス様ご自身です。コリント第一の手紙の中で、「キリストは神に立てられ、我々の知恵となり、義と聖と贖いとになられた」と書いてあります。私たちが忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐はイエス様ご自身です。私たちに聖きと愛が欠けているのでありましょうか。イエス様は愛であり聖きであられます。主にまかせることと、自分で試みることとの間には本当に天国と地獄ほどの差があります。主に頼ること、すべてを主に明け渡すことこそが、まことの交わりの秘訣であります。
(引用者註:このメッセージは[下]の部分の引用聖句が口語訳聖書からなされています。[上][中]がそうでなく、新改訳聖書からですので、この部分のベック兄の草稿は1970年以前のものと思われます。ベックさんにとっては一人一人の信者が「霊的破産」を経験しているかどうかは、主のご栄光をあらわすためにどうしても必要だと12弟子の経験をとおして洞察しておられ、その思いで一人一人を愛し見ておられたのだと思わされました。GB[166]。)
2017年2月3日金曜日
教会の交わり(中)
この交わりはもちろん表面的な・・・でありません。議論によって生まれるものではありません。この交わりはたとえば同じ教理を持つことによって生まれるものではないし、会議をとおして決議された結果でもありません。この交わりはいのちと霊の交わりです。この交わりの間には少しの暗い所も影もあってはなりません。父ならびに御子イエス様との交わりには完全な信頼に基づいた交わりです。
福音書を読むともちろんはっきりわかります。父なる神は、御子なる神イエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること、計画していることを全部イエス様に教えてくださっただけではなく、すべてをゆだねられたのです。全部の計画を少しの不安もなく、ゆだねることこそが全き信頼です。もちろん逆のことも言えます。イエス様の父に対する態度は全くそういうものだったのです。イエス様は父なる神に完全により頼み、少しも疑わないで父の御心を行われたのです。
あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、すなわち十字架に向かって歩まれる時も少しも疑わないで全き信頼を父なる神においておられたのです。イエス様と父なる神はお互いにそんなに信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼こそが聖書の中で「交わり」と呼ばれているのです。この父と御子イエス様のすばらしい交わりに我々人間も加わることができることとはほんとうに驚くべき事実です。そして主なる神は何ゆえに私たちのような者をこの交わりに召してくださったか、もちろん幾ら考えても知ることができません。ただ一つ分かることは測り知れない主の愛のゆえであるということです。
そして、ヨハネ伝15章はイエス様の弟子たちに話されたことについての箇所でありますが、イエス様は一体どうしていろんなことをなされたかと言いますと、彼らにいろんなことを教えるためではありません、彼らに一つの教えを与えよう(とする)ためではありませんでした。イエス様の願ったことは弟子たちがこの交わりに入ることだったのです。
イエス様は私たちのような者をどうして救ってくださったのか、もちろんわかりません。そして、私たちは救われるためにだけ救われたのではないことももちろん皆んな分かっています。よく言われることは用いられるためです。確かにそうなんですけど、用いられるために、もう一つの大切な面があるんじゃないかと思うのです。すなわち、この交わりにあずかるために私たちは救われたのであり、召されたのであるということです。
私たちはどうして救われたのでありましょうか。聖書は色々なこと言っています。簡単にまとめてみますと次のこと言えるでしょう。本当の自由を持つためです。聖い生活のためです。キリスト御自身の平和が我々の心を満たすためです。またイエス様のご自身の持っておられる喜びが我々の内に宿るためです。またあふるるばかりの祝福を受け継ぐためである。ひとことばで言いますと、主との交わりに入らせるために私たちは救われたのだということです。
マルコ伝の中でイエス様の弟子たちの召されたことについて次のように書き記されています。63頁になります。マルコの福音書3章13節です。
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
と、書いてあります。遣わされるために、用いられるために救われたのだと良く強調されます。けども、その前にイエス様のご目的は何であったかと言いますと、それは彼らを身近に置くためである、と書いてあります。すなわち、弟子たちはまず第一にご自分のみもとに置くために召されたのである。その後で遣わすために召されたのです。
イエス様はご自分が永遠の初めから持っておられた父との交わりに弟子たちも入ることを願われたのです。イエス様は今日も全く当時と同じようにこの交わりに私たちがあずかることを願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることができるとは何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足するのではほんとうに残念なんです。※
多くの人は奉仕こそが大切だ。主に仕えようと思えば教会の中で奉仕しなくっちゃいけないと多くの人々は考えているんです。決してそうではありません。イエス様にとっては先ずご自分との交わりを持つようにと我々に求めておられます。人々は熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との交わりを持っていない人々がたくさんいます。これこそあわれなことです。
私たちは弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、それだけでなく、父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるために召されたのです。ぶどうの木とその枝は結びついているように、私たちは主との交わりを持っていなければならない。そうでなければ、何をやっても実が残りません。イエス様のからだの交わり、すなわち兄弟姉妹の間の交わりも霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、互いがなく、全き信頼、ほんとうの愛がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。
けど問題はどういうふうにこの交わりに、この全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも最初はイエス様との親しい交わりをもちろん持っていなかったのです。彼らは間違いなくイエス様を百%信じたのであり、イエス様を心から愛した人々だったんですけど、本当の意味での交わりを持っていなかったのです。ただイエス様と関わり合いがあると言った程度だったのではないでしょうか。もちろんイエス様は弟子たちを召し、彼らは三年間イエス様と一緒に生活したのです。夜昼一緒だったんです。素晴らしい特権だったと思います。三年間イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさったんですけど、弟子たちはイエス様のことを全然理解することができなかったのです。イエス様は彼らを父なる神との交わりに導こうとなさったんですけど、彼らは理解しなかったんです。
主は弟子たちと少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったんですけど、いざイエス様がみこころを示そうとなさると弟子たちはイエス様を誤解してしまったのです。ある時、ペテロは悪魔の道具になってしまったんです。その時、イエス様は「悪魔よ、下がれ!」と言わざるを得なかったのです。もちろん弟子たちはそれだけでなくお互いの間にもほんとうの意味での交わりがなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度でした。彼らの間には交わりがなかっただけじゃなくて、時々喧嘩をし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないと言った有様だったんですね。どなたが一番偉いかと言うことについて議論してしまったんです。
けども12人の弟子はユダを除いてイエス様を心から愛したのであります。そのために全てを捨ててイエス様に従ってきたのです。イエス様に従うことはもちろんそんなに簡単なことではなかったのです。彼らはもちろん月給もらいませんでした。イエス様はわたしは蒲団一枚でさえもないと言われたのです。寝る所がない、家がない、屋根がないそういう乞食に従うのはちょっとおかしいじゃないですか。けども弟子たちはそうしたんです。やっぱり勘で分かったんです。この方こそが、本物だ。この方に従うと絶対に損しません。幸せになると感じたんです。そして彼らはほんとうにイエス様を心から愛したのであります。
それにもかかわらず、彼らはイエス様との本当の意味での交わりを知らなかったんですし、お互いの交わりも知らなかったのです。お互いに妬み、誤解し争ったんです。けども・・・
(引用者註: ※印の最後の「残念です」と言われるベック兄の言い方がいかにもガックリくるという慨嘆の様子が音声をとおしてそのまま伝わってきます。この聞き書きの開始からおよそ7分経過したあたりです。さて末尾は「けども・・・」で切れています。さてどうなのでしょう。いよいよ明日が結論ですね。GB[165]。)
福音書を読むともちろんはっきりわかります。父なる神は、御子なる神イエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること、計画していることを全部イエス様に教えてくださっただけではなく、すべてをゆだねられたのです。全部の計画を少しの不安もなく、ゆだねることこそが全き信頼です。もちろん逆のことも言えます。イエス様の父に対する態度は全くそういうものだったのです。イエス様は父なる神に完全により頼み、少しも疑わないで父の御心を行われたのです。
あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、すなわち十字架に向かって歩まれる時も少しも疑わないで全き信頼を父なる神においておられたのです。イエス様と父なる神はお互いにそんなに信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼こそが聖書の中で「交わり」と呼ばれているのです。この父と御子イエス様のすばらしい交わりに我々人間も加わることができることとはほんとうに驚くべき事実です。そして主なる神は何ゆえに私たちのような者をこの交わりに召してくださったか、もちろん幾ら考えても知ることができません。ただ一つ分かることは測り知れない主の愛のゆえであるということです。
そして、ヨハネ伝15章はイエス様の弟子たちに話されたことについての箇所でありますが、イエス様は一体どうしていろんなことをなされたかと言いますと、彼らにいろんなことを教えるためではありません、彼らに一つの教えを与えよう(とする)ためではありませんでした。イエス様の願ったことは弟子たちがこの交わりに入ることだったのです。
イエス様は私たちのような者をどうして救ってくださったのか、もちろんわかりません。そして、私たちは救われるためにだけ救われたのではないことももちろん皆んな分かっています。よく言われることは用いられるためです。確かにそうなんですけど、用いられるために、もう一つの大切な面があるんじゃないかと思うのです。すなわち、この交わりにあずかるために私たちは救われたのであり、召されたのであるということです。
私たちはどうして救われたのでありましょうか。聖書は色々なこと言っています。簡単にまとめてみますと次のこと言えるでしょう。本当の自由を持つためです。聖い生活のためです。キリスト御自身の平和が我々の心を満たすためです。またイエス様のご自身の持っておられる喜びが我々の内に宿るためです。またあふるるばかりの祝福を受け継ぐためである。ひとことばで言いますと、主との交わりに入らせるために私たちは救われたのだということです。
マルコ伝の中でイエス様の弟子たちの召されたことについて次のように書き記されています。63頁になります。マルコの福音書3章13節です。
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
と、書いてあります。遣わされるために、用いられるために救われたのだと良く強調されます。けども、その前にイエス様のご目的は何であったかと言いますと、それは彼らを身近に置くためである、と書いてあります。すなわち、弟子たちはまず第一にご自分のみもとに置くために召されたのである。その後で遣わすために召されたのです。
イエス様はご自分が永遠の初めから持っておられた父との交わりに弟子たちも入ることを願われたのです。イエス様は今日も全く当時と同じようにこの交わりに私たちがあずかることを願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることができるとは何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足するのではほんとうに残念なんです。※
多くの人は奉仕こそが大切だ。主に仕えようと思えば教会の中で奉仕しなくっちゃいけないと多くの人々は考えているんです。決してそうではありません。イエス様にとっては先ずご自分との交わりを持つようにと我々に求めておられます。人々は熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との交わりを持っていない人々がたくさんいます。これこそあわれなことです。
私たちは弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、それだけでなく、父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるために召されたのです。ぶどうの木とその枝は結びついているように、私たちは主との交わりを持っていなければならない。そうでなければ、何をやっても実が残りません。イエス様のからだの交わり、すなわち兄弟姉妹の間の交わりも霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、互いがなく、全き信頼、ほんとうの愛がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。
けど問題はどういうふうにこの交わりに、この全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも最初はイエス様との親しい交わりをもちろん持っていなかったのです。彼らは間違いなくイエス様を百%信じたのであり、イエス様を心から愛した人々だったんですけど、本当の意味での交わりを持っていなかったのです。ただイエス様と関わり合いがあると言った程度だったのではないでしょうか。もちろんイエス様は弟子たちを召し、彼らは三年間イエス様と一緒に生活したのです。夜昼一緒だったんです。素晴らしい特権だったと思います。三年間イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさったんですけど、弟子たちはイエス様のことを全然理解することができなかったのです。イエス様は彼らを父なる神との交わりに導こうとなさったんですけど、彼らは理解しなかったんです。
主は弟子たちと少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったんですけど、いざイエス様がみこころを示そうとなさると弟子たちはイエス様を誤解してしまったのです。ある時、ペテロは悪魔の道具になってしまったんです。その時、イエス様は「悪魔よ、下がれ!」と言わざるを得なかったのです。もちろん弟子たちはそれだけでなくお互いの間にもほんとうの意味での交わりがなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度でした。彼らの間には交わりがなかっただけじゃなくて、時々喧嘩をし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないと言った有様だったんですね。どなたが一番偉いかと言うことについて議論してしまったんです。
けども12人の弟子はユダを除いてイエス様を心から愛したのであります。そのために全てを捨ててイエス様に従ってきたのです。イエス様に従うことはもちろんそんなに簡単なことではなかったのです。彼らはもちろん月給もらいませんでした。イエス様はわたしは蒲団一枚でさえもないと言われたのです。寝る所がない、家がない、屋根がないそういう乞食に従うのはちょっとおかしいじゃないですか。けども弟子たちはそうしたんです。やっぱり勘で分かったんです。この方こそが、本物だ。この方に従うと絶対に損しません。幸せになると感じたんです。そして彼らはほんとうにイエス様を心から愛したのであります。
それにもかかわらず、彼らはイエス様との本当の意味での交わりを知らなかったんですし、お互いの交わりも知らなかったのです。お互いに妬み、誤解し争ったんです。けども・・・
(引用者註: ※印の最後の「残念です」と言われるベック兄の言い方がいかにもガックリくるという慨嘆の様子が音声をとおしてそのまま伝わってきます。この聞き書きの開始からおよそ7分経過したあたりです。さて末尾は「けども・・・」で切れています。さてどうなのでしょう。いよいよ明日が結論ですね。GB[165]。)
2017年2月2日木曜日
教会の交わり(上)
詩篇16篇の全篇の朗読
この間、キリスト者の使命について、三回にわたってご一緒に学びましたけれども、すなわち主に対する礼拝、人に仕える奉仕、そして、悪霊に対する戦い、この三つの点について今まで学びましたが、今日は「教会の交わり」という点について少しだけ考えてみたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の代わりに兄弟姉妹と言った方が正しいでしょう。教会と言うとある人々は建物を考えたりして、他の人々は一つの教団・教派とかを考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。聖書の中で教会と言うことばが出て来ると、原語はいつも「集会」になっていますけど、やっぱり「からだなる教会」を意味しておるのです。決して組織と関係のないことです。主イエス様のあわれみによって救われた信者たちの群れこそが「からだなる教会」です。イエス様を受け入れた方々、聖霊の宮になった兄弟姉妹たちはまことの教会であります。この教会の交わり、兄弟姉妹の交わりこそが非常に大切なんです。もちろん救われるためじゃなくて、これはもうすでにキリスト者になった人の使命であるからです。もしある人は私は他の兄弟姉妹必要ない、一人ぼっちで祈って一人ぼっちで聖書を読めばそれで良いのじゃないかと思えば、必ず壁にぶつかるようになります。皆お互いの助けを必要としているのですから。
今、敬三兄弟がお読みになった16篇3節には「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」ダビデは、結局主にある兄弟姉妹、聖徒たちとの交わりの大切さを知るようになったから、こういうふうに告白せざるを得なかったのではないかと思うのです。
昨日、この雑誌もらったのですけども、外国にいるドイツ人のために出されているものです。いつもドイツ大使館の出しているものなんです。もちろん直接ドイツから貰いますけれども、一番最後の頁、いつもグローセ・ドイチェと書いています。偉いドイツ人ですか。今回そのフリードリッヒ・フォン・ボーテンシュリングという人が紹介されているんですけれど、彼は1831年生まれ1910年に召されたんですけど、人間として非常に経済的にも恵まれた人であって最高の教育を受けた人だったんですけども、もちろんイエス様の救いにあずかった者として、いわゆる恵まれていない人々のためにがんばらなくっちゃいけないという使命を受けたのです。ファート・デ・アルメと書いています。こういうふうに呼ばれています。ドイツにいるクリスチャンたちは彼の名前を知らない人は一人もいないと思うんです。結局貧乏人、あるいはあわれなルンペンの父親と呼ばれている人なんですね。彼のリーヴェフェルトの近くのベーテルという町があるんですけれども、結局彼をとおしてつくられた町なんですけど、現在も3000人以上の、何ですかね片輪として生まれた人々ですね、非常に人間社会から追い出された人々が住んでいる所なんです。
そして彼は召される前に聞こえなくなったんです。けども必ず毎週集会に行ったんです。
ある人はおかしいんじゃないか。不思議じゃないかと思っていたんですね。そしてちょっとメモを書いて聞いたらしいんです。「どうして、何も聞こえないのに、どうして毎週、毎週熱心に出席するのか」と、その時彼は何と言ったかと言いますと「聖徒たちの交わりは何物にもまさってすばらしいものだよ」と言ったそうです。ダビデの気持ちもそういうことだったんではないかと思うんですね。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」
パウロも似ていることばを書いたんですけど、テサロニケ第一の手紙ちょっと見てみましょうか。テサロニケ第一の手紙2章364頁になります。2章の19節と20節です。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
と。ダビデの告白とパウロの告白は全く同じものではないでしょうか。聖徒たち、私たちの喜びです。私たちの喜び、あなたがたではないか。あなたがたこそ私の喜び、とパウロは書き記したのであります。
主は我々のあらゆる必要をご存知であり、そして主はその必要を主の時に豊かに満たしていてくださるのです。恐らく私たち皆経験したことがあると思うんですけども、主は兄弟姉妹をとおして豊かに祝福してくださるということです。たとえば、葬儀があったり、納骨式があったり、記念会があったり、また修養会の時も皆んな心をひとつにして、主だけが中心になってもらいたいという心構えを持つ兄弟姉妹を見ると嬉しくて嬉しくてしょうがない。自分が役割を演じたい、中心になりたいのではなく、イエス様が中心になってもらいたいと思うことは決して普通ではありません。主が生きておられる証拠、主のなしたもう奇跡ではないでしょうか。そして救われていない人々がそれを見ると、これは(兄弟)姉妹ではない、ほんとうではないじゃないかと思うようになり、真理を見出そうと願うようになります※。
主なる神の御霊は「慰め人」と呼ばれています。この慰め人である聖霊は信者一人一人の中に住んでいます。この内住の御霊によって信者はパウロが書いているように私たちの喜びとなるのです。教会、すなわち兄弟姉妹の交わりこそが信仰の成長のために必要、非常に大切なのです。もちろん一番大切なのはイエス様との交わりを持つこと。当然です。イエス様との交わりを持つためにイエス様をもちろん知る必要があります。誰も相手の人を知らなければ交わりを持つことができません。それ無理なんですね。知るようになってから始めて交わりを持つことができる。
聖書もそれを非常に強調しています。すなわち、イエス・キリストを知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることでもない。単なる聖書知識を得ることでもない。イエス様御自身を知ることこそが大切です。すなわちイエス様を受け入れることによって知ることです。イエス様を受け入れた人は、すなわちイエス様の前に頭を下げて、悪かった、ごめんなさい、赦してください、あわれんでくださいという態度を取った人は、イエス様は受け入れて下さったと素直に信ずることができる。理解できたからではありません。聖書はそう約束されているからです。神は嘘つきではないからです。イエス様をこういうふうに知ることこそが大切です。イエス様を知ることなしに、私たちには神との交わりはあり得ませんし、また成長も望めませんし、恵みもまことの奉仕もやってきませんし、できません。
これらすべてのことは私たちがイエス様を知るか知らないかにかかっていることを心に銘記したいと思います。けど私たちが肉体の形を取っているこの地上ではイエス様をもちろん完全に知り尽くすことはできません。たとえ非常に早く霊的に成長したとしてもイエス様を知り尽くすことは全く不可能です。ですから、パウロはよく手紙の中で私はイエス様をより良く知りたいと何回も、何回も書き記したのであります。彼はもちろんイエス様を、普通の人はちょっと経験できないことを経験したのですね。イエス様をこの目で見たのです。イエス様の声をこの耳で聞くことができたのです。彼は天に引き上げられたことも経験したのです。人間のことばで言い表わせないことばも聞いたのであると、聖書は言っているんですけど、彼は全然満足しなかったのです。私はイエス様をよりよく知りたいという切なる願いを持っていたのです。
イエス様との交わりについて、キリスト者同士の交わりについて、考えるといつもヨハネ伝15章を思い出します。イエス様はわたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。これは決して組織的な関係を意味するのではなく、一つの有機体だともちろんわかります。ぶどうの木とその枝は同じ生命を持っています。イエス様との結びつきによって、イエス様と同じ永遠のいのちを持っている人たちは、聖書の中で「教会」と呼ばれています。聖書を見ると、ただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。コリント第一の手紙の1章9節にパウロは次のように書き記したのでありますが
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
このコリントの教会は決していい教会ではなかったのです。めちゃくちゃな教会だったんですけど、それにしてもパウロは確信をもって、喜びをもってこういうふうに書くことができたのですね。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」と。この御子イエス・キリストとの交わりこそ、キリスト者、兄弟姉妹の交わりの源です。私たちは父ならびに御子イエス様との交わりを知っているなのでありましょうか。
(引用者註: ※のところはちょっとわかりにくい言い方になっていると思うが、多分信仰を持っていない方々が、信者がお互いに喜びをもって交わっている姿を見て、ほんとうの兄弟姉妹のような間柄を見て、どうしてなんだろうと真実なものを自分も求めてみたいと思われるようになるとベック兄はおっしゃりたかったのでないかと思う。振り返ってみるとこのメッセージは直接お聞きしたような気がする。とすると2003年以降のある火曜の学び会のものでないかと思う。GB[164]。)
この間、キリスト者の使命について、三回にわたってご一緒に学びましたけれども、すなわち主に対する礼拝、人に仕える奉仕、そして、悪霊に対する戦い、この三つの点について今まで学びましたが、今日は「教会の交わり」という点について少しだけ考えてみたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の代わりに兄弟姉妹と言った方が正しいでしょう。教会と言うとある人々は建物を考えたりして、他の人々は一つの教団・教派とかを考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。聖書の中で教会と言うことばが出て来ると、原語はいつも「集会」になっていますけど、やっぱり「からだなる教会」を意味しておるのです。決して組織と関係のないことです。主イエス様のあわれみによって救われた信者たちの群れこそが「からだなる教会」です。イエス様を受け入れた方々、聖霊の宮になった兄弟姉妹たちはまことの教会であります。この教会の交わり、兄弟姉妹の交わりこそが非常に大切なんです。もちろん救われるためじゃなくて、これはもうすでにキリスト者になった人の使命であるからです。もしある人は私は他の兄弟姉妹必要ない、一人ぼっちで祈って一人ぼっちで聖書を読めばそれで良いのじゃないかと思えば、必ず壁にぶつかるようになります。皆お互いの助けを必要としているのですから。
今、敬三兄弟がお読みになった16篇3節には「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」ダビデは、結局主にある兄弟姉妹、聖徒たちとの交わりの大切さを知るようになったから、こういうふうに告白せざるを得なかったのではないかと思うのです。
昨日、この雑誌もらったのですけども、外国にいるドイツ人のために出されているものです。いつもドイツ大使館の出しているものなんです。もちろん直接ドイツから貰いますけれども、一番最後の頁、いつもグローセ・ドイチェと書いています。偉いドイツ人ですか。今回そのフリードリッヒ・フォン・ボーテンシュリングという人が紹介されているんですけれど、彼は1831年生まれ1910年に召されたんですけど、人間として非常に経済的にも恵まれた人であって最高の教育を受けた人だったんですけども、もちろんイエス様の救いにあずかった者として、いわゆる恵まれていない人々のためにがんばらなくっちゃいけないという使命を受けたのです。ファート・デ・アルメと書いています。こういうふうに呼ばれています。ドイツにいるクリスチャンたちは彼の名前を知らない人は一人もいないと思うんです。結局貧乏人、あるいはあわれなルンペンの父親と呼ばれている人なんですね。彼のリーヴェフェルトの近くのベーテルという町があるんですけれども、結局彼をとおしてつくられた町なんですけど、現在も3000人以上の、何ですかね片輪として生まれた人々ですね、非常に人間社会から追い出された人々が住んでいる所なんです。
そして彼は召される前に聞こえなくなったんです。けども必ず毎週集会に行ったんです。
ある人はおかしいんじゃないか。不思議じゃないかと思っていたんですね。そしてちょっとメモを書いて聞いたらしいんです。「どうして、何も聞こえないのに、どうして毎週、毎週熱心に出席するのか」と、その時彼は何と言ったかと言いますと「聖徒たちの交わりは何物にもまさってすばらしいものだよ」と言ったそうです。ダビデの気持ちもそういうことだったんではないかと思うんですね。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」
パウロも似ていることばを書いたんですけど、テサロニケ第一の手紙ちょっと見てみましょうか。テサロニケ第一の手紙2章364頁になります。2章の19節と20節です。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
と。ダビデの告白とパウロの告白は全く同じものではないでしょうか。聖徒たち、私たちの喜びです。私たちの喜び、あなたがたではないか。あなたがたこそ私の喜び、とパウロは書き記したのであります。
主は我々のあらゆる必要をご存知であり、そして主はその必要を主の時に豊かに満たしていてくださるのです。恐らく私たち皆経験したことがあると思うんですけども、主は兄弟姉妹をとおして豊かに祝福してくださるということです。たとえば、葬儀があったり、納骨式があったり、記念会があったり、また修養会の時も皆んな心をひとつにして、主だけが中心になってもらいたいという心構えを持つ兄弟姉妹を見ると嬉しくて嬉しくてしょうがない。自分が役割を演じたい、中心になりたいのではなく、イエス様が中心になってもらいたいと思うことは決して普通ではありません。主が生きておられる証拠、主のなしたもう奇跡ではないでしょうか。そして救われていない人々がそれを見ると、これは(兄弟)姉妹ではない、ほんとうではないじゃないかと思うようになり、真理を見出そうと願うようになります※。
主なる神の御霊は「慰め人」と呼ばれています。この慰め人である聖霊は信者一人一人の中に住んでいます。この内住の御霊によって信者はパウロが書いているように私たちの喜びとなるのです。教会、すなわち兄弟姉妹の交わりこそが信仰の成長のために必要、非常に大切なのです。もちろん一番大切なのはイエス様との交わりを持つこと。当然です。イエス様との交わりを持つためにイエス様をもちろん知る必要があります。誰も相手の人を知らなければ交わりを持つことができません。それ無理なんですね。知るようになってから始めて交わりを持つことができる。
聖書もそれを非常に強調しています。すなわち、イエス・キリストを知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることでもない。単なる聖書知識を得ることでもない。イエス様御自身を知ることこそが大切です。すなわちイエス様を受け入れることによって知ることです。イエス様を受け入れた人は、すなわちイエス様の前に頭を下げて、悪かった、ごめんなさい、赦してください、あわれんでくださいという態度を取った人は、イエス様は受け入れて下さったと素直に信ずることができる。理解できたからではありません。聖書はそう約束されているからです。神は嘘つきではないからです。イエス様をこういうふうに知ることこそが大切です。イエス様を知ることなしに、私たちには神との交わりはあり得ませんし、また成長も望めませんし、恵みもまことの奉仕もやってきませんし、できません。
これらすべてのことは私たちがイエス様を知るか知らないかにかかっていることを心に銘記したいと思います。けど私たちが肉体の形を取っているこの地上ではイエス様をもちろん完全に知り尽くすことはできません。たとえ非常に早く霊的に成長したとしてもイエス様を知り尽くすことは全く不可能です。ですから、パウロはよく手紙の中で私はイエス様をより良く知りたいと何回も、何回も書き記したのであります。彼はもちろんイエス様を、普通の人はちょっと経験できないことを経験したのですね。イエス様をこの目で見たのです。イエス様の声をこの耳で聞くことができたのです。彼は天に引き上げられたことも経験したのです。人間のことばで言い表わせないことばも聞いたのであると、聖書は言っているんですけど、彼は全然満足しなかったのです。私はイエス様をよりよく知りたいという切なる願いを持っていたのです。
イエス様との交わりについて、キリスト者同士の交わりについて、考えるといつもヨハネ伝15章を思い出します。イエス様はわたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。これは決して組織的な関係を意味するのではなく、一つの有機体だともちろんわかります。ぶどうの木とその枝は同じ生命を持っています。イエス様との結びつきによって、イエス様と同じ永遠のいのちを持っている人たちは、聖書の中で「教会」と呼ばれています。聖書を見ると、ただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。コリント第一の手紙の1章9節にパウロは次のように書き記したのでありますが
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
このコリントの教会は決していい教会ではなかったのです。めちゃくちゃな教会だったんですけど、それにしてもパウロは確信をもって、喜びをもってこういうふうに書くことができたのですね。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」と。この御子イエス・キリストとの交わりこそ、キリスト者、兄弟姉妹の交わりの源です。私たちは父ならびに御子イエス様との交わりを知っているなのでありましょうか。
(引用者註: ※のところはちょっとわかりにくい言い方になっていると思うが、多分信仰を持っていない方々が、信者がお互いに喜びをもって交わっている姿を見て、ほんとうの兄弟姉妹のような間柄を見て、どうしてなんだろうと真実なものを自分も求めてみたいと思われるようになるとベック兄はおっしゃりたかったのでないかと思う。振り返ってみるとこのメッセージは直接お聞きしたような気がする。とすると2003年以降のある火曜の学び会のものでないかと思う。GB[164]。)
2017年2月1日水曜日
悪の霊に対する戦い(下)
私たちはイエス様を信ずる者になったのですけど、私たちはキリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするなのでしょうか。これこそが我々に与えられている使命です。神の栄光をあらわすのは、よみがえりのいのちです。明らかになるのは、いつも自分のわがままであるか、主のよみがえりのいのちかのどちらかです。
パウロの生活を見ると彼が、これがよくわかるはずなのです。神のご栄光はよみがえりの力です。パウロは死に面したこともしばしばあった、また生きる望みをさえも失ってしまった、いつもイエスの死をこの身に負うているとパウロは告白しています。ここで私たちはパウロの弱さ、パウロの戦い・・・ことができます。けれど、もしパウロの働きの深さ、満たし、結果を見るとびっくりするでしょう。いったいどうしてでしょうか。パウロはとっても強かったのでしょうか。パウロの利口さのせいでしょうか。いえ、決してそうではありません。パウロの、彼の証しは今読みましたところなんですね。7節
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
と、書いてあります。土の器に宿っているよみがえりの力はパウロの生活の秘訣だったのです。あなたは「土の器」でしょうか。「わたしは弱い者だ、あまり役に立ちません、主は私を用いることができないでしょう」などと言うのでありましょうか。パウロは実に土の器でしたけど、パウロはこの土の器こそ、それが神の計り知れない力の器であるべきだと確信しました。神がこの土の器によってだけ、ご自分の測り知れない力をあらわすことができるのです。
先ほどの二人の姉妹の弟ラザロをちょっと見てみましょう。ラザロはイエス様に愛された者だったんです。ラザロについて書かれているヨハネ伝11章の一番はじめに、ひとりの病人があった、それはラザロだった、と書いてあります。どうして、イエス様はラザロが病気になることをお許しになったのでありましょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様は心からラザロを愛したのです。なぜ、ラザロは病気になったのでありましょうか。その時のラザロを想像してみましょう。
彼は病の床に倒れました。日を追うに従って、段々衰弱して来ます。しかし、イエス様は来られません。「もし、イエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もないのに。」ほんとうに、もしイエス様がおられるなら、問題はないでしょうか。もちろん、ラザロにとってみれば、主がおられれば何の問題もありません。病もすぐに治ったでしょうけど、それはイエス様のみこころではなかったのです。だからイエス様はすぐにラザロのもとに来ようとしなかったのです。もちろん心の中では三人の兄弟姉妹をあわれみ泣いたでしょう。イエス様は一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、みこころは違うところにありました。ですから、すぐにはラザロのもとにお出でにならなかったのです。ラザロがイエス様のよみがえりの力を経験するには死を通らなければならなかったんです。
我々の信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされます。恐ろしい自分を愛する愛と主を愛する愛はともにあることはできません。また自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと主に対するまことの奉仕は両立しません。己の考えと計画も、これらと一緒に死にわたされなければ、よみがえりの力を自分のものとすることはできません。私たちの信仰生活にはいろいろ思いがけないことが起こります。そうすると、「いったいどうしてであろう、なぜだろう」と考えます。けど、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きて来ないことが往々にしてあります。信仰によって歩み絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それにとりすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。自分はもう駄目だ、自分の前には死が待っている、墓が待っているだけだとさえ思うこともあるでしょう。そこにまで主が私たちを導いてくださる時、そうなって始めて、絶望して始めて私たちをしっかりと握ってくださいます。それはいったいどういうわけでありましょうか。それはイエス様は私たちをとおしてよみがえりの力をあらわしたいからです。それは理論でもなく、説教でもなく、特別な教えでもなく、主のみこころなんです。
あなたの生活、また私の生活は、彼の証し、すなわちイエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。けど私たちは主のみこころはもちろん、死ではなくいのちである。しかしこのいのちは死をとおして始めてやって来るというところに目を留めなければいけません。ヨハネ伝12章の2節に、イエス様と一緒に食卓に着いた人々のうちにラザロも加えられたと書いてあります。ラザロが何かをしゃべったとは書いてありません。ラザロは別段説教者ではなかったようです。けども12章9節から11節には驚くべきラザロの証しが書かれています。
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
彼らは当時の結局ユダヤ教から去ってしまったのです。ユダヤ教は形式的いのちのないものになったのです。今日言えることは多くの人々は組織されたいのちのない教会を離れるとやっぱりまわりの人々の、いわゆるクリスチャンからの憎しみを感ずるようになるのではないでしょうか。結局祭司長たちはラザロを殺そうと相談したのです。彼をとおして人々はイエス様に対する飢え渇きを感ずるようになり、イエス様によって満たされるようになったからです。この箇所を見るとラザロは口で証しすることをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証しました。
よみがえりの力で生活するとはいったいどういうことなのでありましょうか。「主よ、あなたが召してくださったご奉仕に力がない、私が何一つできない、この奉仕をするのはあなたでなければ駄目です、私を導く力を与えて下さい。」こういう全く自分の無力を認めた生活がそれなんです。すなわち生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主により頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。多くの人はラザロの証しをとおしてイエス様を信ずるようになり、救われたのですけど、それでは終わりではありませんでした。ラザロが証した時、悪魔も、祭司たち、聖書学者たちをとおしてラザロを殺そうと攻撃していました。すなわち、悪魔にとってよみがえりの力よりいやなものはありません。
私たちはラザロと同じように主と共なる交わりを持ちたく思っているのでありましょうか。主と共なる交わりを得るには苦しみも、攻撃も、戦いも経験しなければいけないでしょう。第一に死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかも知れません。それとも私たちはもっと楽な道を選びたいと思うなのでしょうか。私たちは今、末の世に生きています。イエス様は間もなくお出でになるでしょう。どこへ行ってもそこには暗黒と混乱があります。けどもし私たちがみこころが何であるかを良く知っているなら、大きな喜びをもって信仰生活を前に進むことができます。
簡単にまとめてみますと、ベタニヤは主に対する分かたれざる愛が満ちているところでした。また主に対するご奉仕、忠実な奉仕がなされたところでした。そしてイエス様のよみがえりの力があらわされたところでした。私たちは深い聖い分裂のない愛をもってイエス様を愛し、主のみこころにかなうようにと心を用いて主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎよみがえりの力を経験した者としてその力を証しする者となりたいものです。またレビ人のように主に礼拝し人に仕え、悪霊と戦う者となりたいものです。そして主のご臨在をあらわしていきたいものです。
(引用者註: 毎日このようにしてベック兄のメッセージを聞き書きするのは大変な労力と時間を要しますが、一方全く揺るぐことのないベック兄の聖書全体の霊的真理を明らかにされるその姿勢に改めて感謝を覚え、疲れを忘れさせられる者です。今日から二月に入りました。明日もこの『キリスト者の使命』シリーズの四番目のテーマ『教会の交わり』を引き続きお聞きしたいと思います。GB[163]。)
パウロの生活を見ると彼が、これがよくわかるはずなのです。神のご栄光はよみがえりの力です。パウロは死に面したこともしばしばあった、また生きる望みをさえも失ってしまった、いつもイエスの死をこの身に負うているとパウロは告白しています。ここで私たちはパウロの弱さ、パウロの戦い・・・ことができます。けれど、もしパウロの働きの深さ、満たし、結果を見るとびっくりするでしょう。いったいどうしてでしょうか。パウロはとっても強かったのでしょうか。パウロの利口さのせいでしょうか。いえ、決してそうではありません。パウロの、彼の証しは今読みましたところなんですね。7節
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
と、書いてあります。土の器に宿っているよみがえりの力はパウロの生活の秘訣だったのです。あなたは「土の器」でしょうか。「わたしは弱い者だ、あまり役に立ちません、主は私を用いることができないでしょう」などと言うのでありましょうか。パウロは実に土の器でしたけど、パウロはこの土の器こそ、それが神の計り知れない力の器であるべきだと確信しました。神がこの土の器によってだけ、ご自分の測り知れない力をあらわすことができるのです。
先ほどの二人の姉妹の弟ラザロをちょっと見てみましょう。ラザロはイエス様に愛された者だったんです。ラザロについて書かれているヨハネ伝11章の一番はじめに、ひとりの病人があった、それはラザロだった、と書いてあります。どうして、イエス様はラザロが病気になることをお許しになったのでありましょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様は心からラザロを愛したのです。なぜ、ラザロは病気になったのでありましょうか。その時のラザロを想像してみましょう。
彼は病の床に倒れました。日を追うに従って、段々衰弱して来ます。しかし、イエス様は来られません。「もし、イエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もないのに。」ほんとうに、もしイエス様がおられるなら、問題はないでしょうか。もちろん、ラザロにとってみれば、主がおられれば何の問題もありません。病もすぐに治ったでしょうけど、それはイエス様のみこころではなかったのです。だからイエス様はすぐにラザロのもとに来ようとしなかったのです。もちろん心の中では三人の兄弟姉妹をあわれみ泣いたでしょう。イエス様は一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、みこころは違うところにありました。ですから、すぐにはラザロのもとにお出でにならなかったのです。ラザロがイエス様のよみがえりの力を経験するには死を通らなければならなかったんです。
我々の信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされます。恐ろしい自分を愛する愛と主を愛する愛はともにあることはできません。また自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと主に対するまことの奉仕は両立しません。己の考えと計画も、これらと一緒に死にわたされなければ、よみがえりの力を自分のものとすることはできません。私たちの信仰生活にはいろいろ思いがけないことが起こります。そうすると、「いったいどうしてであろう、なぜだろう」と考えます。けど、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きて来ないことが往々にしてあります。信仰によって歩み絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それにとりすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。自分はもう駄目だ、自分の前には死が待っている、墓が待っているだけだとさえ思うこともあるでしょう。そこにまで主が私たちを導いてくださる時、そうなって始めて、絶望して始めて私たちをしっかりと握ってくださいます。それはいったいどういうわけでありましょうか。それはイエス様は私たちをとおしてよみがえりの力をあらわしたいからです。それは理論でもなく、説教でもなく、特別な教えでもなく、主のみこころなんです。
あなたの生活、また私の生活は、彼の証し、すなわちイエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。けど私たちは主のみこころはもちろん、死ではなくいのちである。しかしこのいのちは死をとおして始めてやって来るというところに目を留めなければいけません。ヨハネ伝12章の2節に、イエス様と一緒に食卓に着いた人々のうちにラザロも加えられたと書いてあります。ラザロが何かをしゃべったとは書いてありません。ラザロは別段説教者ではなかったようです。けども12章9節から11節には驚くべきラザロの証しが書かれています。
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
彼らは当時の結局ユダヤ教から去ってしまったのです。ユダヤ教は形式的いのちのないものになったのです。今日言えることは多くの人々は組織されたいのちのない教会を離れるとやっぱりまわりの人々の、いわゆるクリスチャンからの憎しみを感ずるようになるのではないでしょうか。結局祭司長たちはラザロを殺そうと相談したのです。彼をとおして人々はイエス様に対する飢え渇きを感ずるようになり、イエス様によって満たされるようになったからです。この箇所を見るとラザロは口で証しすることをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証しました。
よみがえりの力で生活するとはいったいどういうことなのでありましょうか。「主よ、あなたが召してくださったご奉仕に力がない、私が何一つできない、この奉仕をするのはあなたでなければ駄目です、私を導く力を与えて下さい。」こういう全く自分の無力を認めた生活がそれなんです。すなわち生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主により頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。多くの人はラザロの証しをとおしてイエス様を信ずるようになり、救われたのですけど、それでは終わりではありませんでした。ラザロが証した時、悪魔も、祭司たち、聖書学者たちをとおしてラザロを殺そうと攻撃していました。すなわち、悪魔にとってよみがえりの力よりいやなものはありません。
私たちはラザロと同じように主と共なる交わりを持ちたく思っているのでありましょうか。主と共なる交わりを得るには苦しみも、攻撃も、戦いも経験しなければいけないでしょう。第一に死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかも知れません。それとも私たちはもっと楽な道を選びたいと思うなのでしょうか。私たちは今、末の世に生きています。イエス様は間もなくお出でになるでしょう。どこへ行ってもそこには暗黒と混乱があります。けどもし私たちがみこころが何であるかを良く知っているなら、大きな喜びをもって信仰生活を前に進むことができます。
簡単にまとめてみますと、ベタニヤは主に対する分かたれざる愛が満ちているところでした。また主に対するご奉仕、忠実な奉仕がなされたところでした。そしてイエス様のよみがえりの力があらわされたところでした。私たちは深い聖い分裂のない愛をもってイエス様を愛し、主のみこころにかなうようにと心を用いて主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎよみがえりの力を経験した者としてその力を証しする者となりたいものです。またレビ人のように主に礼拝し人に仕え、悪霊と戦う者となりたいものです。そして主のご臨在をあらわしていきたいものです。
(引用者註: 毎日このようにしてベック兄のメッセージを聞き書きするのは大変な労力と時間を要しますが、一方全く揺るぐことのないベック兄の聖書全体の霊的真理を明らかにされるその姿勢に改めて感謝を覚え、疲れを忘れさせられる者です。今日から二月に入りました。明日もこの『キリスト者の使命』シリーズの四番目のテーマ『教会の交わり』を引き続きお聞きしたいと思います。GB[163]。)
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