私たちはイエス様を信ずる者になったのですけど、私たちはキリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするなのでしょうか。これこそが我々に与えられている使命です。神の栄光をあらわすのは、よみがえりのいのちです。明らかになるのは、いつも自分のわがままであるか、主のよみがえりのいのちかのどちらかです。
パウロの生活を見ると彼が、これがよくわかるはずなのです。神のご栄光はよみがえりの力です。パウロは死に面したこともしばしばあった、また生きる望みをさえも失ってしまった、いつもイエスの死をこの身に負うているとパウロは告白しています。ここで私たちはパウロの弱さ、パウロの戦い・・・ことができます。けれど、もしパウロの働きの深さ、満たし、結果を見るとびっくりするでしょう。いったいどうしてでしょうか。パウロはとっても強かったのでしょうか。パウロの利口さのせいでしょうか。いえ、決してそうではありません。パウロの、彼の証しは今読みましたところなんですね。7節
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
と、書いてあります。土の器に宿っているよみがえりの力はパウロの生活の秘訣だったのです。あなたは「土の器」でしょうか。「わたしは弱い者だ、あまり役に立ちません、主は私を用いることができないでしょう」などと言うのでありましょうか。パウロは実に土の器でしたけど、パウロはこの土の器こそ、それが神の計り知れない力の器であるべきだと確信しました。神がこの土の器によってだけ、ご自分の測り知れない力をあらわすことができるのです。
先ほどの二人の姉妹の弟ラザロをちょっと見てみましょう。ラザロはイエス様に愛された者だったんです。ラザロについて書かれているヨハネ伝11章の一番はじめに、ひとりの病人があった、それはラザロだった、と書いてあります。どうして、イエス様はラザロが病気になることをお許しになったのでありましょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様は心からラザロを愛したのです。なぜ、ラザロは病気になったのでありましょうか。その時のラザロを想像してみましょう。
彼は病の床に倒れました。日を追うに従って、段々衰弱して来ます。しかし、イエス様は来られません。「もし、イエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もないのに。」ほんとうに、もしイエス様がおられるなら、問題はないでしょうか。もちろん、ラザロにとってみれば、主がおられれば何の問題もありません。病もすぐに治ったでしょうけど、それはイエス様のみこころではなかったのです。だからイエス様はすぐにラザロのもとに来ようとしなかったのです。もちろん心の中では三人の兄弟姉妹をあわれみ泣いたでしょう。イエス様は一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、みこころは違うところにありました。ですから、すぐにはラザロのもとにお出でにならなかったのです。ラザロがイエス様のよみがえりの力を経験するには死を通らなければならなかったんです。
我々の信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされます。恐ろしい自分を愛する愛と主を愛する愛はともにあることはできません。また自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと主に対するまことの奉仕は両立しません。己の考えと計画も、これらと一緒に死にわたされなければ、よみがえりの力を自分のものとすることはできません。私たちの信仰生活にはいろいろ思いがけないことが起こります。そうすると、「いったいどうしてであろう、なぜだろう」と考えます。けど、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きて来ないことが往々にしてあります。信仰によって歩み絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それにとりすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。自分はもう駄目だ、自分の前には死が待っている、墓が待っているだけだとさえ思うこともあるでしょう。そこにまで主が私たちを導いてくださる時、そうなって始めて、絶望して始めて私たちをしっかりと握ってくださいます。それはいったいどういうわけでありましょうか。それはイエス様は私たちをとおしてよみがえりの力をあらわしたいからです。それは理論でもなく、説教でもなく、特別な教えでもなく、主のみこころなんです。
あなたの生活、また私の生活は、彼の証し、すなわちイエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。けど私たちは主のみこころはもちろん、死ではなくいのちである。しかしこのいのちは死をとおして始めてやって来るというところに目を留めなければいけません。ヨハネ伝12章の2節に、イエス様と一緒に食卓に着いた人々のうちにラザロも加えられたと書いてあります。ラザロが何かをしゃべったとは書いてありません。ラザロは別段説教者ではなかったようです。けども12章9節から11節には驚くべきラザロの証しが書かれています。
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
彼らは当時の結局ユダヤ教から去ってしまったのです。ユダヤ教は形式的いのちのないものになったのです。今日言えることは多くの人々は組織されたいのちのない教会を離れるとやっぱりまわりの人々の、いわゆるクリスチャンからの憎しみを感ずるようになるのではないでしょうか。結局祭司長たちはラザロを殺そうと相談したのです。彼をとおして人々はイエス様に対する飢え渇きを感ずるようになり、イエス様によって満たされるようになったからです。この箇所を見るとラザロは口で証しすることをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証しました。
よみがえりの力で生活するとはいったいどういうことなのでありましょうか。「主よ、あなたが召してくださったご奉仕に力がない、私が何一つできない、この奉仕をするのはあなたでなければ駄目です、私を導く力を与えて下さい。」こういう全く自分の無力を認めた生活がそれなんです。すなわち生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主により頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。多くの人はラザロの証しをとおしてイエス様を信ずるようになり、救われたのですけど、それでは終わりではありませんでした。ラザロが証した時、悪魔も、祭司たち、聖書学者たちをとおしてラザロを殺そうと攻撃していました。すなわち、悪魔にとってよみがえりの力よりいやなものはありません。
私たちはラザロと同じように主と共なる交わりを持ちたく思っているのでありましょうか。主と共なる交わりを得るには苦しみも、攻撃も、戦いも経験しなければいけないでしょう。第一に死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかも知れません。それとも私たちはもっと楽な道を選びたいと思うなのでしょうか。私たちは今、末の世に生きています。イエス様は間もなくお出でになるでしょう。どこへ行ってもそこには暗黒と混乱があります。けどもし私たちがみこころが何であるかを良く知っているなら、大きな喜びをもって信仰生活を前に進むことができます。
簡単にまとめてみますと、ベタニヤは主に対する分かたれざる愛が満ちているところでした。また主に対するご奉仕、忠実な奉仕がなされたところでした。そしてイエス様のよみがえりの力があらわされたところでした。私たちは深い聖い分裂のない愛をもってイエス様を愛し、主のみこころにかなうようにと心を用いて主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎよみがえりの力を経験した者としてその力を証しする者となりたいものです。またレビ人のように主に礼拝し人に仕え、悪霊と戦う者となりたいものです。そして主のご臨在をあらわしていきたいものです。
(引用者註: 毎日このようにしてベック兄のメッセージを聞き書きするのは大変な労力と時間を要しますが、一方全く揺るぐことのないベック兄の聖書全体の霊的真理を明らかにされるその姿勢に改めて感謝を覚え、疲れを忘れさせられる者です。今日から二月に入りました。明日もこの『キリスト者の使命』シリーズの四番目のテーマ『教会の交わり』を引き続きお聞きしたいと思います。GB[163]。)
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