2017年2月3日金曜日

教会の交わり(中)

 この交わりはもちろん表面的な・・・でありません。議論によって生まれるものではありません。この交わりはたとえば同じ教理を持つことによって生まれるものではないし、会議をとおして決議された結果でもありません。この交わりはいのちと霊の交わりです。この交わりの間には少しの暗い所も影もあってはなりません。父ならびに御子イエス様との交わりには完全な信頼に基づいた交わりです。

 福音書を読むともちろんはっきりわかります。父なる神は、御子なる神イエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること、計画していることを全部イエス様に教えてくださっただけではなく、すべてをゆだねられたのです。全部の計画を少しの不安もなく、ゆだねることこそが全き信頼です。もちろん逆のことも言えます。イエス様の父に対する態度は全くそういうものだったのです。イエス様は父なる神に完全により頼み、少しも疑わないで父の御心を行われたのです。

 あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、すなわち十字架に向かって歩まれる時も少しも疑わないで全き信頼を父なる神においておられたのです。イエス様と父なる神はお互いにそんなに信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼こそが聖書の中で「交わり」と呼ばれているのです。この父と御子イエス様のすばらしい交わりに我々人間も加わることができることとはほんとうに驚くべき事実です。そして主なる神は何ゆえに私たちのような者をこの交わりに召してくださったか、もちろん幾ら考えても知ることができません。ただ一つ分かることは測り知れない主の愛のゆえであるということです。

 そして、ヨハネ伝15章はイエス様の弟子たちに話されたことについての箇所でありますが、イエス様は一体どうしていろんなことをなされたかと言いますと、彼らにいろんなことを教えるためではありません、彼らに一つの教えを与えよう(とする)ためではありませんでした。イエス様の願ったことは弟子たちがこの交わりに入ることだったのです。

 イエス様は私たちのような者をどうして救ってくださったのか、もちろんわかりません。そして、私たちは救われるためにだけ救われたのではないことももちろん皆んな分かっています。よく言われることは用いられるためです。確かにそうなんですけど、用いられるために、もう一つの大切な面があるんじゃないかと思うのです。すなわち、この交わりにあずかるために私たちは救われたのであり、召されたのであるということです。

 私たちはどうして救われたのでありましょうか。聖書は色々なこと言っています。簡単にまとめてみますと次のこと言えるでしょう。本当の自由を持つためです。聖い生活のためです。キリスト御自身の平和が我々の心を満たすためです。またイエス様のご自身の持っておられる喜びが我々の内に宿るためです。またあふるるばかりの祝福を受け継ぐためである。ひとことばで言いますと、主との交わりに入らせるために私たちは救われたのだということです。

 マルコ伝の中でイエス様の弟子たちの召されたことについて次のように書き記されています。63頁になります。マルコの福音書3章13節です。
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

と、書いてあります。遣わされるために、用いられるために救われたのだと良く強調されます。けども、その前にイエス様のご目的は何であったかと言いますと、それは彼らを身近に置くためである、と書いてあります。すなわち、弟子たちはまず第一にご自分のみもとに置くために召されたのである。その後で遣わすために召されたのです。

 イエス様はご自分が永遠の初めから持っておられた父との交わりに弟子たちも入ることを願われたのです。イエス様は今日も全く当時と同じようにこの交わりに私たちがあずかることを願っておられます。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることができるとは何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足するのではほんとうに残念なんです。※

 多くの人は奉仕こそが大切だ。主に仕えようと思えば教会の中で奉仕しなくっちゃいけないと多くの人々は考えているんです。決してそうではありません。イエス様にとっては先ずご自分との交わりを持つようにと我々に求めておられます。人々は熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との交わりを持っていない人々がたくさんいます。これこそあわれなことです。

 私たちは弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、それだけでなく、父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるために召されたのです。ぶどうの木とその枝は結びついているように、私たちは主との交わりを持っていなければならない。そうでなければ、何をやっても実が残りません。イエス様のからだの交わり、すなわち兄弟姉妹の間の交わりも霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、互いがなく、全き信頼、ほんとうの愛がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。

 けど問題はどういうふうにこの交わりに、この全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも最初はイエス様との親しい交わりをもちろん持っていなかったのです。彼らは間違いなくイエス様を百%信じたのであり、イエス様を心から愛した人々だったんですけど、本当の意味での交わりを持っていなかったのです。ただイエス様と関わり合いがあると言った程度だったのではないでしょうか。もちろんイエス様は弟子たちを召し、彼らは三年間イエス様と一緒に生活したのです。夜昼一緒だったんです。素晴らしい特権だったと思います。三年間イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさったんですけど、弟子たちはイエス様のことを全然理解することができなかったのです。イエス様は彼らを父なる神との交わりに導こうとなさったんですけど、彼らは理解しなかったんです。

 主は弟子たちと少しの疑いもない全き信頼を置く交わりに入りたかったんですけど、いざイエス様がみこころを示そうとなさると弟子たちはイエス様を誤解してしまったのです。ある時、ペテロは悪魔の道具になってしまったんです。その時、イエス様は「悪魔よ、下がれ!」と言わざるを得なかったのです。もちろん弟子たちはそれだけでなくお互いの間にもほんとうの意味での交わりがなかったのです。ただ関わり合いがあると言った程度でした。彼らの間には交わりがなかっただけじゃなくて、時々喧嘩をし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないと言った有様だったんですね。どなたが一番偉いかと言うことについて議論してしまったんです。

 けども12人の弟子はユダを除いてイエス様を心から愛したのであります。そのために全てを捨ててイエス様に従ってきたのです。イエス様に従うことはもちろんそんなに簡単なことではなかったのです。彼らはもちろん月給もらいませんでした。イエス様はわたしは蒲団一枚でさえもないと言われたのです。寝る所がない、家がない、屋根がないそういう乞食に従うのはちょっとおかしいじゃないですか。けども弟子たちはそうしたんです。やっぱり勘で分かったんです。この方こそが、本物だ。この方に従うと絶対に損しません。幸せになると感じたんです。そして彼らはほんとうにイエス様を心から愛したのであります。

 それにもかかわらず、彼らはイエス様との本当の意味での交わりを知らなかったんですし、お互いの交わりも知らなかったのです。お互いに妬み、誤解し争ったんです。けども・・・

(引用者註: ※印の最後の「残念です」と言われるベック兄の言い方がいかにもガックリくるという慨嘆の様子が音声をとおしてそのまま伝わってきます。この聞き書きの開始からおよそ7分経過したあたりです。さて末尾は「けども・・・」で切れています。さてどうなのでしょう。いよいよ明日が結論ですね。GB[165]。)

1 件のコメント:

  1. 朝から、イエスさまの、語りかけを聞いた喜びで、感謝するばかりです。今日も祈りみことばを食べれるのはなんと幸せな特権でしょうか。ありがとうございます。大村

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