2017年2月2日木曜日

教会の交わり(上)

詩篇16篇の全篇の朗読

 この間、キリスト者の使命について、三回にわたってご一緒に学びましたけれども、すなわち主に対する礼拝、人に仕える奉仕、そして、悪霊に対する戦い、この三つの点について今まで学びましたが、今日は「教会の交わり」という点について少しだけ考えてみたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の代わりに兄弟姉妹と言った方が正しいでしょう。教会と言うとある人々は建物を考えたりして、他の人々は一つの教団・教派とかを考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。聖書の中で教会と言うことばが出て来ると、原語はいつも「集会」になっていますけど、やっぱり「からだなる教会」を意味しておるのです。決して組織と関係のないことです。主イエス様のあわれみによって救われた信者たちの群れこそが「からだなる教会」です。イエス様を受け入れた方々、聖霊の宮になった兄弟姉妹たちはまことの教会であります。この教会の交わり、兄弟姉妹の交わりこそが非常に大切なんです。もちろん救われるためじゃなくて、これはもうすでにキリスト者になった人の使命であるからです。もしある人は私は他の兄弟姉妹必要ない、一人ぼっちで祈って一人ぼっちで聖書を読めばそれで良いのじゃないかと思えば、必ず壁にぶつかるようになります。皆お互いの助けを必要としているのですから。

 今、敬三兄弟がお読みになった16篇3節には「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」ダビデは、結局主にある兄弟姉妹、聖徒たちとの交わりの大切さを知るようになったから、こういうふうに告白せざるを得なかったのではないかと思うのです。

 昨日、この雑誌もらったのですけども、外国にいるドイツ人のために出されているものです。いつもドイツ大使館の出しているものなんです。もちろん直接ドイツから貰いますけれども、一番最後の頁、いつもグローセ・ドイチェと書いています。偉いドイツ人ですか。今回そのフリードリッヒ・フォン・ボーテンシュリングという人が紹介されているんですけれど、彼は1831年生まれ1910年に召されたんですけど、人間として非常に経済的にも恵まれた人であって最高の教育を受けた人だったんですけども、もちろんイエス様の救いにあずかった者として、いわゆる恵まれていない人々のためにがんばらなくっちゃいけないという使命を受けたのです。ファート・デ・アルメと書いています。こういうふうに呼ばれています。ドイツにいるクリスチャンたちは彼の名前を知らない人は一人もいないと思うんです。結局貧乏人、あるいはあわれなルンペンの父親と呼ばれている人なんですね。彼のリーヴェフェルトの近くのベーテルという町があるんですけれども、結局彼をとおしてつくられた町なんですけど、現在も3000人以上の、何ですかね片輪として生まれた人々ですね、非常に人間社会から追い出された人々が住んでいる所なんです。

 そして彼は召される前に聞こえなくなったんです。けども必ず毎週集会に行ったんです。
ある人はおかしいんじゃないか。不思議じゃないかと思っていたんですね。そしてちょっとメモを書いて聞いたらしいんです。「どうして、何も聞こえないのに、どうして毎週、毎週熱心に出席するのか」と、その時彼は何と言ったかと言いますと「聖徒たちの交わりは何物にもまさってすばらしいものだよ」と言ったそうです。ダビデの気持ちもそういうことだったんではないかと思うんですね。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」

 パウロも似ていることばを書いたんですけど、テサロニケ第一の手紙ちょっと見てみましょうか。テサロニケ第一の手紙2章364頁になります。2章の19節と20節です。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

と。ダビデの告白とパウロの告白は全く同じものではないでしょうか。聖徒たち、私たちの喜びです。私たちの喜び、あなたがたではないか。あなたがたこそ私の喜び、とパウロは書き記したのであります。

 主は我々のあらゆる必要をご存知であり、そして主はその必要を主の時に豊かに満たしていてくださるのです。恐らく私たち皆経験したことがあると思うんですけども、主は兄弟姉妹をとおして豊かに祝福してくださるということです。たとえば、葬儀があったり、納骨式があったり、記念会があったり、また修養会の時も皆んな心をひとつにして、主だけが中心になってもらいたいという心構えを持つ兄弟姉妹を見ると嬉しくて嬉しくてしょうがない。自分が役割を演じたい、中心になりたいのではなく、イエス様が中心になってもらいたいと思うことは決して普通ではありません。主が生きておられる証拠、主のなしたもう奇跡ではないでしょうか。そして救われていない人々がそれを見ると、これは(兄弟)姉妹ではない、ほんとうではないじゃないかと思うようになり、真理を見出そうと願うようになります※。

 主なる神の御霊は「慰め人」と呼ばれています。この慰め人である聖霊は信者一人一人の中に住んでいます。この内住の御霊によって信者はパウロが書いているように私たちの喜びとなるのです。教会、すなわち兄弟姉妹の交わりこそが信仰の成長のために必要、非常に大切なのです。もちろん一番大切なのはイエス様との交わりを持つこと。当然です。イエス様との交わりを持つためにイエス様をもちろん知る必要があります。誰も相手の人を知らなければ交わりを持つことができません。それ無理なんですね。知るようになってから始めて交わりを持つことができる。

 聖書もそれを非常に強調しています。すなわち、イエス・キリストを知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることでもない。単なる聖書知識を得ることでもない。イエス様御自身を知ることこそが大切です。すなわちイエス様を受け入れることによって知ることです。イエス様を受け入れた人は、すなわちイエス様の前に頭を下げて、悪かった、ごめんなさい、赦してください、あわれんでくださいという態度を取った人は、イエス様は受け入れて下さったと素直に信ずることができる。理解できたからではありません。聖書はそう約束されているからです。神は嘘つきではないからです。イエス様をこういうふうに知ることこそが大切です。イエス様を知ることなしに、私たちには神との交わりはあり得ませんし、また成長も望めませんし、恵みもまことの奉仕もやってきませんし、できません。

 これらすべてのことは私たちがイエス様を知るか知らないかにかかっていることを心に銘記したいと思います。けど私たちが肉体の形を取っているこの地上ではイエス様をもちろん完全に知り尽くすことはできません。たとえ非常に早く霊的に成長したとしてもイエス様を知り尽くすことは全く不可能です。ですから、パウロはよく手紙の中で私はイエス様をより良く知りたいと何回も、何回も書き記したのであります。彼はもちろんイエス様を、普通の人はちょっと経験できないことを経験したのですね。イエス様をこの目で見たのです。イエス様の声をこの耳で聞くことができたのです。彼は天に引き上げられたことも経験したのです。人間のことばで言い表わせないことばも聞いたのであると、聖書は言っているんですけど、彼は全然満足しなかったのです。私はイエス様をよりよく知りたいという切なる願いを持っていたのです。

 イエス様との交わりについて、キリスト者同士の交わりについて、考えるといつもヨハネ伝15章を思い出します。イエス様はわたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。これは決して組織的な関係を意味するのではなく、一つの有機体だともちろんわかります。ぶどうの木とその枝は同じ生命を持っています。イエス様との結びつきによって、イエス様と同じ永遠のいのちを持っている人たちは、聖書の中で「教会」と呼ばれています。聖書を見ると、ただ一つの交わりが書かれています。それは父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。コリント第一の手紙の1章9節にパウロは次のように書き記したのでありますが
神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

このコリントの教会は決していい教会ではなかったのです。めちゃくちゃな教会だったんですけど、それにしてもパウロは確信をもって、喜びをもってこういうふうに書くことができたのですね。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」と。この御子イエス・キリストとの交わりこそ、キリスト者、兄弟姉妹の交わりの源です。私たちは父ならびに御子イエス様との交わりを知っているなのでありましょうか。

(引用者註: ※のところはちょっとわかりにくい言い方になっていると思うが、多分信仰を持っていない方々が、信者がお互いに喜びをもって交わっている姿を見て、ほんとうの兄弟姉妹のような間柄を見て、どうしてなんだろうと真実なものを自分も求めてみたいと思われるようになるとベック兄はおっしゃりたかったのでないかと思う。振り返ってみるとこのメッセージは直接お聞きしたような気がする。とすると2003年以降のある火曜の学び会のものでないかと思う。GB[164]。) 

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