前に何回も何回も言いましたように、大切なのは本当に主を仰ぎ見ることだけではないでしょうか。私たち自身を見ることは要りません。私たちは長い間自分自身を見て来ましたが、そのことの結果はどうだったのでありましょうか。私たちは傲慢になったり、また劣等感に陥ります。誰でも自分自身を見ると自分自身に頼る・・・、それは哀れな状態です。どうして私たちはイエス様だけを見ないのでしょうか。私たちはみことばを信じていないからです。「わたしから離れてはあなたがたは何一つできないからである」とイエスは言われたのです。もし私たちはこのみことばを信ずるならば、私たちは何事も自身を当てにしないでしょう。そして私たちは失望させられない、イエス様だけを見ましょう。私たちは自分自身を見る価値のない者です。
また私たちは他人を見ることは要りません。これも長い間私たちのなしたことではないでしょうか。その結果は、人の顔を見ることに陥り、または人の機嫌を取ることに心を奪われてしまいます。それは不幸の道です。おそらくイエス様を信ずる者は皆ペテロの経験をするでしょう。ペテロはイエス様を見ながら、「あなたこそ生けるまことの神、キリストです」と言いましたけど、まもなくイエス様は同じペテロに言われたのです。「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者だ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」人を見ることはすなわち人により頼むことです。すなわち、主に頼ることができません。人を見る目から離れてイエス様だけを見上げなさい。
また、私たちは境遇を見る必要がありません。もし私たちが境遇の面倒なことを見るとそれに支配されてしまいます。「わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ないからである」とイエス様は言われたのです。このみことばを信ずべきではないでしょうか。イエス様はここで何もできない。多くのこと出来ないと言われなかったのですね。何も出来ない。説教することができても、証しをすることができても、色んな奉仕をすることができても、けどその実は永久に残りません。イエス様の判断によると「少しも」残らない、わたしから離れてはあなたがたは何一つ出来ない。私たちは自分自身を見ることは要りません。他人を見ることは要りません。境遇を見る必要はありません。
罪とはいったい何なのでありましょうか。罪というギリシヤ語の意味の一つは「矢が的をはずれる」という意味です。同じようにイエス様を見ないことは的をはずれることです。すなわち、罪です。一つの実例を申し上げましょうか。それはずっと昔、前の前の話ですけど、1942年ソ連のスターリングラードであったことなんですけども、ドイツの軍隊33万人はスターリングラードの町の中に敵の軍隊によって包囲されていました。数週間後、軍隊、兵隊たちはもはや弾薬も食料もなくなったんです。馬も全部食べ尽くされました。最初はまだ病人と負傷者は飛行機で連れ出すことができたんです。もちろんその情勢は見込みがなかったんです。多くの兵士たちは故郷の家族を思い絶望しました。その中にイエス様を信ずる者ももちろんいましたし、これらの信者たちは敵や絶望的な状態を見ることなく、ただイエス様だけを見たのです。私の友だちの友人もそこにいまして、この方はこのような状態の中では何にも出来ないということを知って、これは「イエス様なしでは何も出来ない」ということばを良く知っていましたので、彼はまたこのことばの現実性を知っていたから、すなわち「私を強くしてくださる方によって何事でも出来る」と確信したのです。だから、彼はこのような絶望的な状態の中でさえ、次のような詩をつくることができたのです。
主イエスと共にあれば、毎日毎日が麗しくなる
それを私は体験し、経験する
将来何が起ころうとも主イエスに忠誠を尽くしたい
と、このような詩をつくったんです。彼はもちろんすぐあとでも殺されてしまったんです。けども、主に頼ることこそが力の源です。
最後にちょっとだけ自己否定の大切さについて、すなわち自分により頼まないことについて考えて終わりたいと思います。自己否定は自分の権利をささげることです。自分により頼まないことです。「私の心ではなくあなたの御心をなしてください。」これこそがイエス様の全生涯の変わらなかった態度だったんです。だからイエス様から恵みの流れ、いのちの泉が人々に分け与えられていたのです。私たちの考え、私たちの感情、私たちの意志すべて主のご支配のもとに置かれる時、私たちの内からいのちの泉が湧き出てくるはずです。我々の生まれながらの考え、感情、意志は決して霊的ではありません。これを御霊の支配にゆだねる時、初めてそれは御心にかなうものとなります。それらを主にささげることにより、霊的なものになります。自分自らの考え、感情、意志を、自分から主に決心してささげるのでなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ません。
大ぜいの人が一緒にする決心ではなく、一人ひとりが決心しなければならないことです。これは祈りによっては解決できないことでしょう。実際に行わなければならないことです。「主よ、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通してご自身の御心をなさしめてください」と言いたいものです。
創世記の中でアブラハムについて多くのこと書いていますけども、彼はイサクをささげる前に、そのイシュマエルと言う子どもをささげなければならなかったんですけど、多くの信ずる者は反対のことをしているのではないかと思うんですね。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげようと思っているのです。すなわち、自らの自分の力で、肉の力で主に仕えようとします。いわゆる聖めは罪からの解放よりもっと深く大きいものです。それは自分の意志を主にささげ、自分の支配を主にゆだねることです。アブラハムは勇気を奮い起こして、自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。そのあとでアブラハムにもたらされた祝福はどんなに大きかったことでしょう。
彼の勝利の生活を私たちも送るためには何をやったら良いのでありましょう。アブラハムと同じように自分の最も愛するものを主にささぐることによって勝利の生活を送ることができます。
ドイツにある一人のキリスト者がいますけど、この方は自分の生まれながらの性質を非常に苦にしていました。いつも悪魔に試みられ、おまえは繰り返し繰り返し同じ失敗をしている、おまえはもう駄目な人間だと、言って来ます。けどある日、その人は自分の古き人が十字架につけられた夢を見ました。それからまた悪魔が攻めて来ましたが、この時十字架につけられた自らを指し示したところ、悪魔は逃げて行ってしまったということです。
十字架を見ると、そこにはイエス様だけではなく、我々の古き人もそこについているとロマ書6章6節に「私たちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」と書いてありますが、どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことができます。イエス様の勝利は完全な勝利です。イエス様は私たちの古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださったのです。パウロはガラテヤ書2章20節に「生きているのは私ではなく、キリストが私の内に住んでおられる」と言うことができたのです。
悪魔は我々に対して何の権利もない、「悪魔よ、退け」ということができます。あなたの持てる問題が何であろうとイエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて主の声を聞きましょう。そうして行くと、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるようになります。
(引用者註:前半の太字でお示しした部分は考えさせられるところだった。なぜなら、実が残るのはすべてイエス様とつながっている時にもたらされるもので、イエス様につながらずに、頼らずにどんなことをやっても結局実となって残らぬと言われているからである。さて「結」の部分はどのようにして締めくられるのでしょうか。それは明日のお楽しみです。GB[169]。)
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