2017年2月6日月曜日

実を結ぶ人生(承)

 先ず誰でもイエス様のところに来なければならないから、彼から離れてはまことのクリスチャンであることはできません。この15章の姿をご覧くださいますと、イエス様自身がまことのぶどうの木で、そしてあなたがたは、すなわち信ずる者はその枝である、と言われています。これは有機体を意味するんですね。そして組織的な関係じゃないんですね。イエス様は木であり、信ずる者はその枝である。木の幹はその枝に力を送って枝が多くの実を結ぶことができるのです。ぶどうの幹に力といのちが満ちているのであります。

 パウロは私たちの主と私たちとの関係をコロサイ書2章9節と10節でもって次のようなことばで表現していますね。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

と、書いてあります。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、(結局、キリストと結びついている者であるから)満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」と。そして前に読みましたヨハネ伝15章5節に
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

これは努力の結果ではなく、つながっている結果です。当然です。主の中に力といのちが満ち満ちています。主は私たちの内に生きておられ、そして私たちをとおして実を結ぼうと望んでおられます。私たちはその満ち足るものを受けるために生きたつながりを保っていなければならない。だからこの5節の後半に「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。

 私たちのうち、もっとも足りないことはいったい何でしょうか。それは私たちが自分で何かを試みようとし、イエス様のために何か計画をしようとする独立の精神だけがあってイエス様によりかかる心がないことではないでしょうか。イエス様がペテロに次のように言われたことがありますけども、ヨハネ伝の21章、良く知られていることばですけども、ペテロはその時、もちろんこのことばの意味を理解することができなかったと思います。206頁です。ヨハネ伝21章の18節です。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

と、あります。このことばは私たちも必ずいつか体験しなければならないのでありましょう。全く主によりかかるということが、実を結ぶことと、力を持つこととの秘訣であります。

 主によりかかることがまことの自由です。私たちは果たして自ら貧しいことを知っているのでありましょうか。私たちは何事もできない者です。けれども主イエス様は私たちのうちにあって行動者となり、愛する者となり、祈祷者とならんことを切に望んでおられるのであります。この無限の富を前にして私たちは乞食のようではないでしょうか。主によりかかることは、泉につながっていることを意味しています。そしてイエス様こそが泉そのものです。我々の慰めの泉であると聖書は言っています。マタイ伝11章の中でイエス様は「重荷を負って苦労している者は、いろいろなことで悩んでいる者は、わたしのところに来なさい。わたしは休ませてあげます。わたしこそがまことの慰めの泉である」と。この悩める世には無数の人が慰めを求めています。けど、誰もまた何にもこれに答えるものはありません。しかし、イエス様は呼びかけておられます。「わたしのもとに来なさい。わたしは休ませてあげます。まことの慰めを与えます」と。

 またイエス様は力の源であります。力の泉です。前に読みましたコロサイ書2章9節からもう一回読みます。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

と、書き記されているんです。私たちは能力と権力を必要とします。主はこれらのものの所有者であり、イエス様こそが力の泉そのものであられます。もちろん、イエス様は罪の赦しの源であり、泉であられます。イエス様だけが神の権威を持って「あなたの罪は赦されたのだ」と言える方であります。

 罪の赦しを欲しいと思う人は、先ず自らは罪人であると知らなければなりません。もちろん、自分は罪人だ、過ちを犯した者だと認めることだけでは十分ではありません。イエス様はあなたにどんな罪を犯したかとお訊ねになります。自分はかつて聖い主なる神とあなたとの間にいかに大きな隔たりがあることを感ぜられたことがあるなのでありましょうか。自分の過ちを告白したことがあるなのでありましょうか。隠す者は成功しない。言い表わすと恵みを受けると聖書全体は約束しています。もし私たちは自分の罪を言い表わすと神はその罪を赦してくださり、受け入れてくださる、と書き記されています。ですから、言いあらわした後で、神は赦してくださった、と素直に信ずることができる。どうしてであるかと言いますと聖書がそう言っているからであります。神は嘘を知らない方であるのです。

 またイエス様は平和の泉そのものであります。現代の世界の国々は皆「平和」「平和」と宣伝します。平和会議を招集します。けども、そういう人々はイエス様だけが平和の源そのものであることを忘れているのです。パウロは「キリストこそ私たちの平和です」と確信をもって、経験者として言うことができたのです。イエス様によりかかるということが、慰め、力、罪の赦しと平和の源に連結していると言う事実を覚えましょう。

 イエス様により頼む秘訣はいったい何なのでありましょうか。ヘブル書の12章の2節に次のように書いてありますが、ヘブル人への手紙の12章の2節です。良く知られていることばです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 「イエスから目を離さないこと」です。これこそがもっとも大切であり、主により頼む秘訣です。主によりかかるというのは、すなわちイエス様だけを仰ぎ見ることです。イエス様が私たちのために十字架につけられただけでなく、イエス様はほんとうに復活なさったのです。イエス様は死を克服してくださったお方です。そしてイエス様は神の御座の右に座しておられる方です、と。その御座とは栄光の場所であります。イエス様はいつも主なる神の御心にかなうお方でありました。十字架をさえ忍ばれたので、天にお帰りになった時、父なる神はイエス様をその一番高い栄光の場所を与えられたのであります。ピリピ書によると「神は彼を高く引き上げて、すべての名にまさる名を主イエス様に賜わった」と書いてあります。またイエス様は「罪の聖めのわざをなし終えてから、いと高きところにいます大能者の右の座に着かれた」と書いてあります。この御座とはほんとうに栄光の場であり、生ける場であり、力の場であります。イエス様はこの世におられた時、次のように言うことができたのです。「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた」と。

 我々の主が、栄光の場、生ける場、力の場に座しておられるお方です。その主によりかかる人が、あえて不思議とするところでない、次のように宣言することができます。ピリピ書4章「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」「私はすべてのものを受けて有り余るほどである」とパウロは言うことができたのです。「私は神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださる」とあります。そのように宣言することの出来る秘訣は主によりかかることです。そのより頼むのは信ずる者の幸せです。イエス様から離れては何一つできないのである。けど、イエス様とともなれば何事もできるということです。ヘブル書2章9節に次のようなことばが書いています。390頁ですね。イエス様を見上げる必要性についての箇所です。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

と書いてあります。イエスのことは見ている。大切なのはそれなんです。詩篇の34篇の5節に
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

主を仰ぎ見ると彼らは輝いた・・・・

(引用者註:GB[168]。今日の引用者註は「泉あるところⅡ」http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/に載せた。 )

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