ほんとうの交わりはいつから始まったかと言いますと、もちろん使徒行伝2章に書かれている五旬節の時です。彼らは聖霊によってひとつにされた時、すなわち彼らは聖霊の宮になることによって、ほんとうの意味で交わりが始まったのです。
その時から弟子たちは完全に変わったのです。五旬節から弟子たちはほんとうの意味で交わりを持つようになったのです。たとえばペテロが立ち上がった時、他の11人もともに立ち上がったと書いてあります。前に相談してああしようこうしようと賛成した結果ではなく、自発的にそうなったのです。彼らは一つになったんです。12人は12人の別の人々ではなかったのです。皆一つだったんです。結局12人の人たちは12人の一人一人ではなく、12人がひとつのからだを成したのです。
五旬節の日の立役者はペテロだったんですけども、聖書を見るとペテロだけが目立った、中心だった、と書いていません。人々は皆を見て驚いたと書いていません。ペテロを見て大したもんだと言うことでなく、皆を見て驚かれたとあります。ですから、五旬節はいわゆる教会の誕生日です。まことの交わりの始まりであります。この時からは、信者はもはや一人一人バラバラでなく、イエス様をかしらとする肢体につづり合わされたのです。ペテロと他の弟子たちはほんとうに一つだったんです。彼らは霊の交わりを持っていたのです。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるといったことは見受けられないのです。この交わりはもちろん外から来るのでなく、内に住みたもう御霊のゆえに生まれた交わりだったんです。
交わりとはすべてを共有にすることです。初代の教会のクリスチャンたちはほんとうに一つだったのです。だから、彼らは生き生きとした証しだったのであり、だから、まわりの人々は「兄弟たち。私はどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らは特別伝道集会を持とうとしなかったのです。福音を宣べ伝えようということよりも、彼らは先ず一つにした結果、まわりの人々は求めるようになったのです。「どうしたらいいの。教えてください。導いてください。」これは兄弟姉妹の霊の交わりの結果だったのです。
弟子たちはイエス様とともに過ごした三年間、このまことの交わりを知らずに過ごしてきたのです。これは交わりに入る準備期間だったんです。この三年間、実りのない三年間のように見えるかも知れませんけど、この三年間の年月の間に彼らの古い性質は少しずつ取り除かれたのです。もし弟子がイエス様に従わず、自分の職業を持っていたならば、彼らは皆やっぱり信心深い人として立派な人格者として尊敬されながら生涯を終わったことでありましょう。けどもイエス様とともに歩んでいたから、彼らは自分の姿を教えられ、イエス様のみもとで本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ彼らの心の暗いところは段々取り扱われ、明るみに出されました。彼らの心に隠された思いが現われてきました。もちろん弟子たちは他の人々よりも悪い人々ではなかったんですけど、主の光に照らされた時、絶望的な自分の真相を教えられたのです。
イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全く絶望してしまったのです。その時、彼らは皆逃げてしまったと聖書は言っているのですね。一つの群れとして逃げたのではない、と思うんですね。皆バラバラになって逃げてしまったと思います。けどもこのいわゆる破産はどうしても彼らに必要だったんではないかと思います。用いられるために。霊的破産なくしては誰も主との生きた交わりを持つことは出来ません。霊的破産してしまいますともうおしまいです、駄目です。主が助けてくださらなければ終わりだと分かっている人こそがほんとうの意味で主に頼るようになります。すなわち主との交わりの尊さを理解するようになるのです。
我々のすべきことは本当に余り大切ではない。大切なのは主のなしたもうた救いの御業です。主は救いの代価を払ってくださったから、主は生きておられる、主は必要な時、必要なものを提供していてくださるから、だから安心して将来に向かうことができるのです。破産すること、自分の惨めさを本当に知ることこそが用いられるための秘訣です。多くの信ずる者は、自分で意識しないかも知れないけど、自分の力で自分のためにいろんなことをやります。イエス様は私たちの身代わりに死に、私たちのために復活なさり、そしてすべての背後に支配しておられる万物の支配者であられます。どうしてでありましょうか。それは私たちを変えて、聖霊により、そして主のために御霊を通してすべてのことを行うようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためであります。
何か事が起こるといつも主の御前に行き、私は何もできません、あなたは私の内にある柔和であり、謙遜であり、愛であり、すべてですから、どうか、あなたがこのことを解決を与えて下さい、というのが、御霊によって歩む人の特徴です。主との交わりを持っている人の特徴です。もし私たちが無力になって何もやらないと御霊が代わりになしていてくださるのです。傲慢と主に依存する気持ちのないことが私たちの信仰生活を一番大きく妨げています。あなたは、その自分の傲慢を認め、その傲慢は神の嫌われることであることを知り、また主はあなたの傲慢のために十字架につけられたことを悟るならば、あなたは主に感謝するはずです。主を真心から礼拝せざるを得なくなるでしょう。
イエス様は父なる神に完全に頼っていました。子は父のなさるのを見てする以外に自分からは何事もすることができないとイエス様は告白してくださったのです。私たちは既に自分に頼る事をやめましたでしょうか。イエス様はわたしから離れてはあなたがたは何一つできないと言われたのです。ヨハネ伝15章の5節です。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。結局何をやっても永久的な実が残らない、ということです。イエス様がこれを言われたのですから、このことばは嘘ではなく真理です。ですから、私たちは他に何か試みる必要はありません。もし私たちが試みるならばそれは罪です。
今日学びました交わりの秘訣・秘密とはいったいどういうものなのでありましょうか。聖書は次のように言っています。彼が光でいますように、我々も光の中を歩むならば、まことの交わりを持つ、と書いてあります。すなわち光のうちを歩むことこそが交わりの秘密です。多くの信ずる者の悩みは光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいることではないでしょうか。イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれながらのものは徹底的に駄目であり、役に立たない汚れたものであることがわかるようになります。もしイエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりももちろん正しくなります。
この交わりとはどういうものであるかと言いますと、ひとことばで言いますと、光の交わりです。いのちの交わりです。愛の交わりです。イエス様から離れては私たちはまことの実を結ぶことができませんし、お互いに愛することも出来ませんし、また世に対してはっきりとした態度をも取ることが出来ません。
一つのことを覚えましょう。すなわち私たちに必要なのはイエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様はいのちであり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。聖きとは何でしょうか。私たちは段々少しずつ聖くなることですか。決してそうではありません。これは聖きの実です。現れです。主とのつながっていることの結果です。聖きは主イエス様ご自身です。コリント第一の手紙の中で、「キリストは神に立てられ、我々の知恵となり、義と聖と贖いとになられた」と書いてあります。私たちが忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐はイエス様ご自身です。私たちに聖きと愛が欠けているのでありましょうか。イエス様は愛であり聖きであられます。主にまかせることと、自分で試みることとの間には本当に天国と地獄ほどの差があります。主に頼ること、すべてを主に明け渡すことこそが、まことの交わりの秘訣であります。
(引用者註:このメッセージは[下]の部分の引用聖句が口語訳聖書からなされています。[上][中]がそうでなく、新改訳聖書からですので、この部分のベック兄の草稿は1970年以前のものと思われます。ベックさんにとっては一人一人の信者が「霊的破産」を経験しているかどうかは、主のご栄光をあらわすためにどうしても必要だと12弟子の経験をとおして洞察しておられ、その思いで一人一人を愛し見ておられたのだと思わされました。GB[166]。)
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