キリスト者の使命について学んだんですけど、今まで四回にわたって次の点についてご一緒に学んでたんですけど、先ず主に対する礼拝、それから人に仕える奉仕、それから悪の霊に対する戦い、そして先週は、教会、すなわち兄弟姉妹の交わりについて考えたんですけど、今日は「実を結ぶ人生」について少しだけご一緒に考えてみたいと思います。
救われた人々は救われるためだけに救われたのでなく、キリスト者の人生は実を結ぶ人生であるべきです。ちょっと三つの点に分けたいと思うんですね。この世に対してのキリスト者のあり方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違こそが一つの大切な面だと思うんです。そして二番目は主にだけよりかかることも非常に大切なことであり、それから自己否定、自分により頼まないことも非常に大切であります。
この世に対してのキリスト者のあり方について考えると、ピリピ人3章8節はその答えになるのではないかと、思うんですね。今お読みになりました箇所、もう一回お読み致します。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
こういう風に、パウロは証しするようになったのです。パウロはこのことばのうちに主を知ることのいかにすぐれているか、またいかに価値あることであるか 、それから主を知るためにはいかに多くの価を払わなければいけないかを述べています。パウロはここでこれらのものをあくたの如く思うと言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは決して決して小さなものではなかったんです。それはパウロの立場、パウロの能力その時にもうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。知恵や名誉や学識は問題ではなくなり、イエス様を知ること、イエス様をより良く知ることがパウロのすべてとなったのです。ために、主を知るためにパウロは多くの価を払わなければいかなかったんです。
パウロはかつて多くの人にほめそやされ、敬われていたんですけど、いったんイエス様の証し人となるや、それらの人々はパウロから離れてしまったばかりではなく、パウロを迫害視さえするようにさえなったのです。価が払わなければいけなかったんです。パウロは主と他の自ら身につけたものとを良ーく比較して、そして検討した結果、主の方を選び取りました。パウロは心の中で、自ら自分は他の者と違うことを確信していました。世人と全く異種の者であることを自覚してたのです。ヨハネ伝の中でイエス様は17章16節に
わたしが世のものでないように、彼らも世のものではない
と、言われたのです。イエス様を受け入れた人々は全く世の人と違った異種の者であるべきです。
おとといの前夜祈祷式、また夕べの前夜祈祷式もそうはっきり感じました。やっぱり主を信ずる者とそうでない者との間には全く違うということです。もちろん私たちは未信者と一緒に生活しなければなりませんけども、イエス様によって救われていない人々と同じではありません。もし私たちがこの世の人々を主に導く者となりたければ、自分はこの世とは全く違った者であることをいつも自覚しなければいけません。もし少しでもこの世と妥協するところがあるなら、主なる神はその人を用いることができません。
イエス様はこの世に生きておられた時、他の人間には見られない友情とあわれみに富んだお方だったのであります。けども他の人間と本質的にイエス様は違ったお方でした。「わたしは世のものではない」とイエス様は何回も何回も言われたのです。イエス様は自分は彼らと違う、いつもこの自覚を持っておられました。これはイエス様のご奉仕の力の源でもあったのです。この内面的な相違こそキリスト者の生涯の力の秘訣です。もし私たちはこの世の人々と本質的に違うということを深く知るならば、何とかしてこの人々を主の国に導きたいという深い願いを持つようになります。もし私たちが主に喜ばれるしもべとして生きたいとするならはっきりした態度を取る必要があります。
私たちが心の中に正しい態度を持つということは決して簡単なことではありません。けども今日神はこの地上にはっきりとした態度を取る人を探し求めておられます。はっきりとした態度を取ることはもちろん1900年前にも同じく簡単ではありませんでした。イエス様の弟子たちについて次のこと言えます。たとえばペテロが殺される時、自分はイエス様と同じ死に方はしたくない、イエス様よりも悪い死に方であるべきと言って、逆さはりつけになったと言われています。ヤコブはヘロデ王によって首を切られて死んだと伝えられています。ヨハネはパトモス島に島流しになり最後を遂げたそうです。アンデレは十字架にかかり最後を遂げたと伝えられています。ピリポも火あぶりにされて殺され、バルトロマイは打ち殺され、トマスはまた刺しで殺されたと伝えられています。マタイはエチオピアで殺され、他のヤコブはエジプトで十字架につけられ、ユダの一人はペルシヤで殺されました。シモンはこれまた十字架で最後を遂げたと言われています。
この主の弟子たちは主と他のもの、この世に属するものをよーく比較検討した結果、皆主を選び取ったのです。もちろんパウロも同じ態度を取ったのです。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」我々の目ざすところはいったいどこにあるのでありましょうか。有名になることでしょうか。世に知られることでしょうか。ほめられることでしょうか。あるいは主のしもべとして用いられたい、主だけが中心になってもらいたいという願いを持っているのでありましょうか。内面的な相違こそが生き生きとした証しであります。
次に主にだけよりかかることも非常に大切でありますが、先週ちょっとヨハネ伝15章から読んだんですけど、もう一回ちょっと1節からお読み致します。良く知られている箇所ですけど、単なるたとえ話よりも、キリストの使命とはどういうものであるか、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるか、この箇所をとおしてはっきり知ることができると思います。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
と、書き記されています。この箇所を見ると、実を結ぶ秘訣とはどういうものであるかと、はっきり知ることができるのです。5節は非常に大切なところです。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないという箇所です。どんな宗教でも何かをしようとしています。どんな宗教もそれぞれに教理を持っています。そしてそれぞれの信者たちはその教理を我がものにしようと努力するでしょう。けど、キリスト教をこれらの宗教に比べるとキリスト教の場合は、ただ教理ばかりではなく、生きておられるイエス様ご自身を知ることは大切であります。ヘブル書の中で「主イエスは昨日も今日もいつまでも変わらないお方である」と書いています。このいつまでも変わらないお方ご自身を知ることこそが大切です。
もし、私たちがある教え、ある教理を実行しようと努力するのは、それはいわゆるキリスト教の出発でなくて、人々がイエス様のもとへ来ることが出発である。ですから、イエス様は決して本物を得るためにわたしの教えを研究せよ、理解せよと言ったことがありません。いつもただありのままの状態で主のところに来なさい。イエス様のところに行った人は皆イエス様御自身を知るようになり、すなわちイエス様によって受け入れられ、癒され、回復されたのです。
(引用者註:私がベック兄とお会いしたのは1990年だが、その時、ベック兄はすでに「キリスト教」という宗教が人々をイエス様のみもとに来させないようにしている元凶だと公言されていた。それにくらべると、このメッセージは「キリスト教」を尊重しながら、人々が既成概念に毒されないようにと、細心の配慮をもって語っておられることが分かる。GB[167]。)
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